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日光にもその名残が? 楽園を目指した過酷な渡海『補陀落渡海』に挑んだ人々

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 海の向こうの楽園『補陀落(ふだらく)』に、閉ざされた船で向かう『補陀落渡海(とかい)』。この『補陀落渡海』はクリスチャンから見ても衝撃的だったらしく、ルイス・フロイスも著作で触れたほどである。観音信仰が広がった中世には、熊野灘だけでなく足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも『補陀落渡海』が行われ、僧侶だけでなく武士や庶民さえも海を渡った。

 これらの『補陀落』信仰は、関東にも影響を与えている。日光が昔、二荒(フタラ)と呼ばれていたのは、「ふだらく」から来ている可能性が高いというのだ。やや乱暴な言い方だが、観音信仰の霊場になっている場所には、『補陀落』信仰があったと言ってもいいかもしれない。

 この『補陀落渡海』は、868(貞観10)年の慶竜上人の時から始まり、1722(享保7)年まで続いたとされており、境内に設置された石碑には、平安時代に5人、鎌倉時代に1人、室町時代に12人、安土桃山時代に1人、江戸時代に6人が渡海したとされている。この人数は、熊野補陀落寺から出発した人数であり、他の地域も入れるとものすごい数の人間が補陀落渡海を行っていると推測できる。

 だが、江戸期には既に死んでいる人物の遺体を生きているように扱って渡海船に乗せて水葬にした。これには、きっかけとなる事件があったのだ。

 戦国時代、金光坊という僧侶が渡海したものの、船を内側から打ち破って逃げ出し、小島に上陸した。この体たらくに役人は激怒、海に突き落として金光坊を殺害してしまった。その結果、生きたままで渡海することはなくなったと言われている。

 何人か著名な人物も渡海している。『平家物語』によると平重盛の嫡男・平維盛が滅んだ一族を供養するために渡海したといい、その供養塔も残されている。交易で栄え、海で滅んだ平家の残党が補陀落渡海をするとは意味深である。

 また、源頼朝の家臣であった下河辺行秀は、那須野で頼朝が狩りをしたとき、目の前に飛び出してきた大きな鹿を射止めることができず、これを恥じた。その後、行秀は逐電。熊野で法華経を読んだ後、那智の浜から補陀落渡海をしたとされている。

 中には生き残って沖縄まで漂着してしまう僧侶もいた。『琉球国由来記』(1713年)によると、日秀は補陀落山を目指したものの沖縄に漂着、金峰山観音寺(金武宮・観音寺)を建立したという。

(山口敏太郎)

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