日本各地でも『補陀落』信仰が盛んになったが、特に南紀の熊野一帯は中心的な信仰の場であった。そもそも、『ニライカナイ』や『竜宮』など、我々日本人は、海の向こうに楽園があるとか、神仏がいる場所があるとか考えてきた。つまり、海上異界の一種が『補陀落』なのだ。
『日本書紀』には、大国主の国づくりを補佐してきた少彦名が海の向こうにある常世に還っていったという記述がある。「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適しぬ」。このように海の向こうの楽園から神々がやってきて、役割が終わるとその楽園に還っていくという概念があった。
そして、この『補陀落』に行くために命を捨てる『補陀落渡海(ふだらくとかい)』という捨身行があった。これは命懸けで『補陀落』を目指す仏教修行の一環であった。
この行の中心地となったのが、熊野・補陀落山寺である。同寺は、仁徳天皇の治世、インドから熊野に漂流してきた裸形上人によって開かれたと言われており、平安時代の作といわれる秘仏「三貌十一面千手千眼観音立像」(この像には補陀落世界からこの地に漂着したという伝承がある)を本尊に据え、『補陀落』信仰のメッカとなり、多くの修行者が集まってきた。
この『補陀落渡海』は、まさに即身成仏の行であったと言っても過言ではない。歴代の住職は61歳の11月になると、30日分の食料と灯火のための油を乗せて、渡海船(小型の木造船)に入り、外から釘を打たれ、場合によって煩悩の数と同じ108個の石を全身にくくりつけ、『補陀落』を目指したのだ。
その渡海船には、『補陀落』を目指す住職が入る空間を取り囲むように4つの鳥居が設置されており、「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」という仏教の修行の経過を表している四門だという。
また、一説によると死後、魂はこの4つの門をくぐって浄土往生すると言われており、この船そのものが異界を表現していると言われている。この渡海船は、伴走船によって沖まで曳航し、頃合を見て綱を切って見送る。
この『補陀落渡海』に関しては、クリスチャンから見ても衝撃的だったらしく、ルイス・フロイスも著作で触れている程である。他にも観音信仰が広がった中世には、熊野灘だけでなく足摺岬、室戸岬、那珂湊などからも『補陀落渡海』が行われ、僧侶だけでなく武士や庶民さえも渡海したという。この『補陀落渡海』の実例に関しては、面白い記録が残っているのだが、これはまた別の機会に譲ろう。
(山口敏太郎)