今回、20年番組を盛り上げてきた総合司会の島田紳助さんが件の話で芸能界を引退。そのため、番組自体のマイナーチェンジ(司会者の変更)を余儀なくされた。その“お陰で”僕が抜擢された格好になった訳だが、実際に正式なオファーがあったのは番組放送の1週間前という慌ただしさ。まさしく「ぶっつけ本番」的な状態であったと言える。
とはいえ、1週前の日曜日に「僕一人による試走」があり、本番では4周走るコースを取りあえず1周だけ触れていた。
それにしても、『赤坂5丁目ミニマラソン』のコースはタフであった事は隠しようがない。スタート直後、いきなり下り、下りきったら今度はスタジオまで延々、登りが待っている。1周は約800メートルらしいのだが、それを4周。僕が今まで経験したコースでナンバー1か2に位置する難しい走路であった。
さらに追い打ちをかけたのが、「ハンデ」だ。僕は引退して、健康ジョグしかしていないというのにハンデキャッパーは僕を現役選手と同じ扱いに設定。エリック・ワイナイナと同様、最終ランナーとして、最も重いハンデを背負う事になった。
正直に言ってこれはキツイ。ハンデの内容は『オールスター感謝祭2011秋』当日まで分からなかったが、これまでの統計から言ってトップランナーから約3分のビハインドは確実。これを3.2キロでカバーリングしなくてはいけないというのは、今の僕には不可能と言わざるを得ない。
そして、『オールスター感謝祭2011秋』当日。案の定、僕が懸念していた通り、ビハインドは統計通りで僕とワイナイナはトップランナーから3分のハンデが決定。まあ、これは想定内なので半分諦めていたが、厄介だったのは「セミプロ」といっていい猫ひろしさんと宇野けんたろう君とのハンデだ。彼らとのビハインドが1分取られたのは大きすぎた。
僕は「赤坂山」を走るのは2回目。しかも1周しか走っていないので、4周走る実感がまるで無い。一方、僕以外のランナーは何度も「赤坂山」を経験している。しかも彼らは「この日」の為に、調整が万全。一発勝負の僕とは大違いだ。
さて、番組がスタート。ご存じの通り、番組はクイズ形式で展開される。僕は初めてなので、真面目にクイズに取り組んでいたが、僕の横に座っていた猫さんや宇野君は余裕シャクシャク。「勝負の時」に備え、「ストレッチをしながらクイズに答えている」のだ。
これには驚きを隠しきれなかった。僕にはクイズに答えるのが一杯一杯。ストレッチまで気が回らない。彼らがこの「ミニマラソン」に、どれだけ本気なのかが理解出来た。
20時30分になり、いよいよ「戦闘モード」。21時頃、スタートということで、参加者がウォーミングアップをし始めた。僕は、(僕の)前の席に座っていた森脇健児さんと以前から交流のある東国原英夫さんとアップをスタート。この中で森脇さんが「4〜5年前は、(マラソン参加者)がもっとゆったりウォーミングアップをしていた」と話していたほど。それ程まで、ピリピリしたムードが漂っていたのだ。
そしてスタート−−。最終ランナーの僕とエリックは最大で3分前にスタートしたランナーを追いかける。僕は初参加とはいえ、優勝(優勝賞金は50万円)を狙っていたので、最初から突っ込んで(飛ばして)入った。僕はスタート直後の下りで勢いをつけ、次に襲いかかる登りへ対応しようと考えた…が、試走した時に感じた通り「赤坂山」はキビシイ。登りではエリックに付いていくのがやっとであった。
結局、エリックと並走する形で1週目を終了。このままでは、マズイと思いつつも、やはり登りがネックだ。2周、3周とエリックと並走することしか出来ずじまいだった。
そして最終周−−。本来ならば、ここでスパートしたいところだが、もはや僕には「足が残っていなかった」。足が前に出ず、エリックに付いていく事はもとより、完走することすら危ぶまれた格好となった(結果は11位)。
応援してくださった視聴者の方々には、申し訳なく思う。ただ、次回はきちっと身体を作って参加したいと思うので、今度こそ結果にこだわりたいと思う。せっかく、「元日本代表」とTBSさんが紹介してくださっているのだから、それに恥じないよう頑張りたい。
<プロフィール>
西田隆維【にしだ りゅうい】1977年4月26日生 180センチ 60.5キロ
陸上長距離選手として駒澤大→エスビー食品→JALグランドサービスで活躍。駒大時代は4年連続「箱根駅伝」に出場、4年時の00年には9区で区間新を樹立。駒大初優勝に大きく貢献する。01年、別府大分毎日マラソンで優勝、同年開催された『エドモントン世界陸上』日本代表に選出される(結果は9位)。09年2月、現役を引退、俳優に転向する。9月3日スタートのラジオ番組「週刊 西田隆維(りゅうい)」(FMたちかわ)のメーンパーソナリティ。