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田中角栄「怒涛の戦後史」(4)最大の親友・入内島金一(下)

 生いたち環境が似ており、互いの性格にも惹かれて仲のよかった井上工業東京支店の小僧として働いた田中角栄と入内島金一だったが、気の短い田中は現場監督とちょっとした言い争いの末、井上工業を辞めてしまった。後年の田中のプライドの高さは、当時から変わらなかった。

 田中は入内島から次の仕事を見つけるためにわずかなカネを借り、以後、職を転々とした。互いを「親友」と認め合った二人の交流は、田中が井上工業を辞めて以来、いったん途切れてしまうことになった。

 その後の田中は職を転々としながらも、夜学で設計、建築などを猛勉強。昭和12(1937)年春、ついに東京・神田錦町に「共栄建築事務所」の看板を掲げた。19歳である。社員なし、所長の田中は営業の一方で現場仕事もこなし、事務員、給仕もまた兼ねるといった具合だった。しかし、ささやかながらのこの独立は、やがて「田中土建工業株式会社」として業績を伸ばし、年間施工実績全国50位内にランクされるなど、事業家として成功する田中の出発点となった。その一方で、ここでの成功を足がかりに政界に出、やがて天下を取る出発点ともなったということである。

 だが、世の中は、好事魔多しにできている。田中は、折角、立ち上げた土建会社の出端をくじかれるように、拡大する日中戦争により、北満州への応召を受けた。昭和14年である。この応召さなか、重度の肺炎・胸膜炎を発症、内地送還となった。内地に戻って大阪の日赤病院、仙台の陸軍病院に入院したが、病状はますます悪化した。

 だが、田中に強運の女神が微笑んだ。奇跡的な回復を果たすとともに、昭和16年10月には除隊通知を手にしたのである。

 除隊後、田中はすぐ仕事をスタートさせたが、心残りは入内島であった。いま、どこでどうしているのか、合わせて律義な田中は井上工業を辞めるときに借りたわずかなカネを、なんとか返したかった。手を尽くした結果、入内島の実家から、北支に出征していることを知った。田中は出征先宛に、借りたカネの何倍もの額を送ったのだった。

 それから数年が経った戦後間もなく、入内島が復員後、故郷の群馬県前橋で兄とともに木工工場を経営していることを知る。田中がすぐ前橋へ飛んだのは、言うまでもなかった。

 井上工業で別れて、かれこれ10年の歳月が流れている。会うなり、二人は即座にあの小僧時代に戻った。互いに無事を喜び合ったあと、田中は入内島に「田中土建工業」で一緒に働いてくれないかと懇請した。「刎頸の友」入内島と、これからの人生を共に歩めたら幸せだ。入内島もまた、田中という人物に一目置いている。結局、常務として入ることになったのだった。

 入社の祝宴は、田中土建工業に近い花街・神楽坂で、芸者を入れて大いに飲んだ。田中は、こうオクターブを上げたのだった。

 「入内島、日本はこれから復興していくぞ。田中土建も、乗り遅れるわけにはいかない。ワシは運が強い。兵隊も、病気が幸いして除隊だ。東京が空襲されても、家も焼けず、会社もほとんど無傷だ。ツイてるな、ワシは」

 田中にとっては、「刎頸の友」と歩む、第2の人生が始まった瞬間だった。

★ヘリを飛ばして病気を見舞う

 その後、田中は事業を続けながら、昭和22年4月の総選挙で衆院議員となり、“二足のワラジ”をはくことになる。一方で入内島は、田中ファミリー会社の役員も務めたが、政治に首を突っ込むことはなかった。

 そうした中、昭和49年、月刊誌『文藝春秋』で田中首相が「金脈問題」で追及を受けると、田中ファミリー会社の役員だった入内島の名前が出た。これに関して、元田中派担当記者の次のような述懐が残っている。

 「田中はもともと政治という魑魅魍魎の世界に入内島を引き入れることに、終始、抵抗感があったようだ。まさに、親友には汚れてほしくないという、友情から来たものと思われた。田中は“金脈問題”で野党が入内島の国会での証人喚問要求の動きを見せたとき、なんともしょげていた。親友の入内島を巻き込むことは耐えられないというふうのようだった」

 一方の入内島も、田中首相の去就に直結しかねない事態だけに、このとき目白の田中邸近くのホテルに泊まり込んでは成り行きに心を痛め、田中を激励していたものだった。

 その入内島が糖尿病が禍いし、眼の病いで群馬県の病院で闘病生活に入ったのは、田中がロッキード裁判を抱え、一方で、田中派後継問題で揺れるさなかの昭和56年であった。前出の元田中派担当記者が続ける。

 「この年の夏以降、田中は月1回、判を押したように群馬まで見舞いに行っていた。多忙の合間をぬって、ヘリを飛ばして行っていた。関係者によると、田中は病室で入内島の手を握り、『しっかりしろ。弱気になっちゃダメだ』と、時には涙を浮べていたと言います。田中の親友への思いが知れた」

 田中は入内島の息子の仲人をやり、「日中国交正常化」交渉のときに周恩来と交換した扇子を、入内島に渡している。友情ぶりが知れるエピソードだ。また、中国から帰国後、目白の田中邸で入内島とマオタイ酒を酌み交わしたものだった。

 井上工業での小僧生活からじつに40年近く、まさかあのとき、総理の私邸で祝い酒ができるとは、田中も入内島も夢にだにしなかったことだった。

 まさに、人生は筋書きのないドラマということになる。
_(本文中敬称略)

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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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