松本に次ぐスターは加藤晶(3期)だった。東の竹野暢勇(栃木)西の加藤晶といわれるくらい強烈なまくりを放った。なかでも印象に残っているのは昭和40年夏の門司・全国都道府県選抜の決勝戦だった。
この年は異常に夏が暑くバンク内の温度は軽く40度を超えていた。高原永伍(神奈川)の先行を14秒5という当時では凄いラップタイムでまくりきり特別を制した。ほかにも昭和33年の高松宮杯、40年の競輪祭のタイトルをとり、全国都道府県対抗では昭和30年の大宮2000メートル、33年の花月園2000メートル、36年の岸和田4000メートルも制している。
スプリンターの竹野に比べて、加藤は前がかかっていればそのスピードをもらってまくる選手で、吉岡稔真(福岡)のまくりに似たタイプだった。
通算勝利数は991。あと9勝で千勝クラブに入れたが、「もうまくりも打てへん。脚があがってしまったんやな。未練はあったけど、わしも精いっぱいやった。案外すっきりした気持ちやったね」とその心境を語っていたことがあった。
口数も少なくマイペースの加藤だったが、平成6年に名輪会が出来ると当然、会員に選ばれ競輪選手の歴史に残っている名選手だった。
若いうちに事故死してしまったが伊東英機(16期)は先行まくりで関西を代表する先行になるのでは…と期待を抱かせた。しかし、プールで遊泳中に溺死してしまった。これは本当に惜しいことだった。
今は評論家で活躍している荒木実(23期)は昭和49年の高松宮杯で直線一気の追い込みで快勝、昭和51年の高松宮杯で再び追い込んでタイトルを獲った。
この荒木が追い込んだコースが通称「びわこ道」といわれるゴールデンコースになったのである。荒木は衰退激しい近畿勢のなかで一人気を吐いたといってもいい。
「夢は伏見中から野球の名門・平安高そしてプロ野球という路線を描いていたが、高校3年の時に近くに住んでいた中村光信のすすめで自転車に乗ったら京都府で3位のタイムが出て国体出場の権利があるという。高校野球で国体に出るのは大変なことだが自転車なら国体に行ける。これは自転車のほうがおもろいな…」
進路変更した荒木は22期で受験、タイムも学科も近畿地区1番の成績を出したが、アクシデントが待っていた。