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競輪人国記 大阪(1)

 競輪の創成期には大阪勢が抜群の強さを見せた。アマ車連に登録していた選手が多かったこともあるが、太平洋戦争で中止となった東京五輪のために、多くの代表候補の中に大阪勢がいたことが要因だろう。
 なかでもボス格は横田隆雄だった。小倉の第一回に間に合わせるために横田はアマ車連から除名されながら選手集めに協力した。24年に開かれた大阪中央の日本選手権では甲規格、乙規格ともに優勝、同年10月の川崎第二回日本選手権でも甲規格で優勝した。
 「横田さんじゃ仕方がない」というムードがあったことは確かだ。32歳のベテランが天下をとった。だが、横田時代はそんなに長く続かなかった。
 昭和25年から始まった高松宮杯では熊本から大阪に来た山本清治が優勝、このとき山本は19歳の若さだった。山本は翌26年も優勝して宮杯を連覇した。
 山本は同年の後楽園・日本選手権も獲っている。新設された小倉競輪祭も優勝しているから当時の3冠王だった。

 同年の大宮・全国都道府県選抜では高倉登(埼玉)が地元の維持を見せているが、もしこのレースも優勝していたら当時のG1グランドスラムを達成したことになる。
 「昔の競輪はバックからのもがきあいだった。だから番手はあまり関係がない。山本さんとか西田勇、後藤欣一なんかは好きな位置からまくり気味に仕掛けて行く山本さんにマークでいい着をとっていたよ」というのは黄金井光良(埼玉)だ。
 そんなラインに平気で競って番手を作る選手も現れた。なにしろ遠征レースの時には地元のボス選手に挨拶しないとグラウンドにも入れなかったという時代だ。戦争が終わってまだ5、6年では脚力よりも気質の荒さがものを言った時代だったのだ。そんな時こわい者知らずに番手を狙う若手が現れ、やがて先行マークの競り合いも競輪の華になる。
 小倉競輪の成功に刺激されて全国で67もバンクを作り、自治体が争って競輪開催をしていた時代である。

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