人の価値判断、いわゆる「その人を見る目」の最大のメルクマール(指標)は「出処進退」の様態であり、特に「退」が重視される。
「晩節を汚す」という言葉がある。最盛期にどんなに仕事ができ敬意を集めても、いざ退陣のころになると立場、ポストに妄執し、醜態を晒すことでそれまでの実績、功績がゼロになってしまうということである。「退」にあたって潔さがないということ。特に政治の世界では、総理大臣というトップの座にすわった者の多くが、退陣後も何とか影響力を残したいと手練手管を弄する。これが、「院政を敷く」という潔さとは無縁の言葉になっている。
そうした「退」の醜態とは無縁、政権はたった65日間と短命だったが、歴代総理の中で「最も鮮やかな引き際」として名を残しているのが昭和31年12月、鳩山一郎首相の後を継いだ石橋湛山であった。表題の言葉は、病いを得、無念の退陣を決意した際に時の首相臨時代理の岸信介、自民党幹事長の三木武夫に宛てた書簡の一部である。
日蓮宗の宗門出身だった石橋はリベラルの立場から、軍部ににらまれながらも常にこれに対峙、自説を貫いた経済ジャーナリストであった。昭和11年の「2・26事件」では、『東洋経済新報』誌主幹としてその社説に“傍観者”をキメ込むマスコミに痛烈な一筆を記すなど、言論人としての反骨精神豊かで、同時にハラのすわりも並みではないことを示した。首相の座にすわるや経済理論としてはケインズ流の積極財政の推進、外交では対中国接近政策を模索した。その上で、自民党では党内融和と派閥解消を、国会においては行き詰まる国会運営の正常化を目指した。
表題の「念願と決意」は、まさに権力抗争に明け暮れる自民党と、それゆえに混迷する国政の停滞の打開に対してだった。
しかし、宗門出身ゆえか権諜術策による議員操縦などはまったく興味なく不得手、ために首相就任からすぐにこの「念願と決意」は壁にぶち当たり、悪いことにこの期、肺炎を引き起こす一方、持病だった三叉神経麻痺が悪化して言語障害まで加わるという運のなさに襲われた。もとより国会の予算審議出席などもままならず、表題の「政治的良心に従い進退を決す」での退陣ということであった。
首相臨時代理を置いていることから若干の病気療養、復帰という道はたぶんに残されてはいたのだが、国政の停滞回避を第一義とし、「鮮やかな引き際」を決断したということである。ちなみに、石橋が政界に転身したのは、最愛の次男を第2次大戦のマーシャル群島で戦死させていることが大きかった。戦死を知り、「此の戦い、いかに終わるか。汝が死をば、父が代わりて国の為に生かさん」と詠んだことで知れる。
こうした石橋のトップリーダーとしての業績評価、功罪は政権わずか65日とあまりに短いゆえに安易に問うことはできない。しかし、その情況を垣間見ることはできる。もともと権力欲が薄く、総裁選に自らそれほど強い出馬意欲はなかったが、少数派閥ながら本連載第21回登場の石田博英の“ウルトラC”演出も手伝って岸信介、石井光次郎の対立候補を押さえて勝利した。その人柄、経論を敬愛する人たちに担がれた側面が強かったということである。そして、退陣は自ら決したのであった。
あらためて、「出処進退」には大原則があることを知りたい。越後長岡藩の家老として名を残す河井継之助の名言にいわく、「進ム時ハ人マカセ。退ク時ハ自ラ決セヨ」とある。「退」とは、仕事に対する執着、未練を自ら断ち切る作業である。この際の人への相談は、茶番の何物でもない。
例えば、社長が幹部に「そろそろ辞めようと思うが、君はどう思うか」とやれば、「いや、まだまだ頑張っていただかないと」などの声が返ってくるのは当然だ。「そりゃあ、いい考えです」などと言う者は一人もいない。もし結果的に辞めなければ、後々この社長ににらまれるのは必定だからである。
また、稀代のトップリーダーとして専横を極めたあの田中角栄元首相も言っている。「多くのことは突っ走ることもやむを得ない。しかし、トップリーダーは国民が絡んだことには無私六分、私情は四分に抑えることだ」と力説してやまなかった。この「国民」という言葉を、「社員」「組織」と置き換えることができるのである。
人間には、必ず「退」の時が来る。高潔で鳴った石橋の「退」を、ぜひ見習いたいものである。
=敬称略=〈完〉
■石橋湛山=第55代内閣総理大臣。大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第12、13、14代)、郵政大臣(第9代)などを歴任。保守合同後初の自民党総裁選を制して総理総裁となったが、在任2カ月余で発病し退陣した。
小林吉弥(こばやしきちや)
永田町取材歴46年のベテラン政治評論家。この間、佐藤栄作内閣以降の大物議員に多数接触する一方、抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書多数。