そもそもSMAPは、光GENJIブームが収まったあとの、アイドル氷河期(91年)に歌手デビュー。歌番組が絶滅の危機にあった時期である。そこでI女史は、バラエティ路線に活路を見いだし、92年4月、『夢がMORIMORI』(フジテレビ系/〜95年9月)のレギュラー枠をゲット。10代のアイドルがカツラをかぶったり、女装をしたり、泥まみれになったり、顔面にパイをぶつけられたりする様は斬新だった。
メンバーの顔と名前を覚えてもらうために、色分け。そこでコント“音松くん”で、中居正広を青、木村拓哉を赤、稲垣吾郎をピンク、森且行は白、香取慎吾は緑、草なぎ剛は黄色のイメージカラーをつけた。
当時のスケジュールは、こうだ。月曜日がリハーサル。火と水曜日が収録。金曜日が反省会。30分番組のために、週に4日も割いていた。理由は、当時の番組ディレクターだった荒井昭博(現:フジテレビ総務局長)さんいわく、「SMAPのスケジュールが白紙だったから」。丹念に制作していたこともあって、93年12月には深夜枠にもかかわらず最高視聴率19.4%をマーク。“デキるアイドル”の称号を手にすると、中居と香取は94年に、草なぎは95年に国民的昼番組『笑っていいとも!』(同局)の曜日レギュラーに大抜てきされた。
SMAPが国民的スターにのし上がる足掛かりとなった“夢MORI”。この番組に出られたのは、先の荒井さんいわく、「ジャニーさんに頼まれたから」。局側としては、積極的な理由で6人を起用したわけではなく、ジャニーさんの懇願が最たる理由だった。
あのとき、ジャニーさんがSMAPに白羽の矢を立てていなければ、モンスターアイドルは誕生していなかった。ジャニー喜多川。こんなときだからこそ、彼の存在意義を考えてもいいだろう。
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