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ケイリン徒然草 昭和40年都道府県対抗圧勝の加藤晶には驚かされた

 ふぐといえば、確かに11月の小倉のふぐはうまかった。はじめてふぐ刺しとかチリを食したが、「ふぐは毒がある」なんて敬遠されていた時代でもある。門司に近い高級料理屋に連れていってもらったが、そのうまさには驚いた。
 話は変わるが、門司競輪場で行われた全国都道府県対抗争覇競輪(今の全日本選抜)に取材にいったことがある。昭和40年の夏だった。その年はくそ暑い夏で、今みたいにエアコンもない。競輪場の記者席で汗をかきながら仕事していたが、他社の年配記者が体調を崩してダウンしてしまった。あまりの暑さに自律神経がおかしくなったそうだ。

 決勝戦は高原永伍(神奈川)の先行を加藤晶(京都)が14秒5でまくって圧勝した。当時500バンクでは15秒を切ったら大変なもので、B級戦なんかで風の強いときは上がりタイムが17秒台なんてこともあったから、この加藤のまくりには、驚かされた。加藤自身はまるで派手さのない選手で勝利者インタビューでも「めぐまれや」と言うだけだった。
 引退するまで989勝を挙げ、千勝まであとわずかになったが、こだわりなく引退してしまった。加藤は昭和33年に高松宮杯、全国都道府県対抗では門司の前に昭和30年の大宮2000m、33年の花月園2000m、36年の岸和田4000mも優勝している。
 この特別は各地区がポイントで地区優勝を争うもの。1000m、2000m、4000mと女子の2000mがあった。昭和38年に4000mに絞られ、4個レースの準決で3着は抽選で決勝に進むシステム。吉田実(香川)が抽選に勝って優勝をさらってしまった。
 まだ西武園が500バンクの頃で、秩父宮妃賜杯も5回で終わってしまったが、昭和41年から45年まで開催された。第1回の優勝者は平間誠記(宮城)、白鳥伸雄(千葉)高原永伍、中川茂一(大阪)、最後は福島正幸(群馬)に輝いた。
 なぜ中止になったかはオールドファンなら良くしっているはず。もう過去の事件だから多くは語りたくない。この事件で宮家に不敬であったということで宮賜杯は返上された。その後遺症で3年間は西武園も大宮も埼玉県ではビッグレースは行われていない。
 昭和48年、49年にやっと日本選手権が連続開催されて、48年は阿部道(宮城)が、49年は田中博(群馬)が優勝。当時は福島、田中、阿部の3強時代といわれたものだ。
 400のバンクに改修されて平成10年にも日本選手権が行われたが、400バンクの西武園でのレースは500バンクの頃とはまるで違うものとなった。癖がある500バンクといわれた昔が懐かしい。

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