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球界地獄耳・関本四十四の巨人軍、ダッグアウト秘話(19) 「8時半の男」

 今でこそ当たり前の勝利の方程式、重要なポジションの抑え投手。元祖は「8時半の男」と呼ばれた宮田さん(征典氏)だ。V9が始まった65年に20勝5敗22セーブという、信じられない成績を記録している。140試合の内、約半分の69試合に登板してリリーフで20勝、22セーブを挙げたんだよ。

 今の抑え投手は1イニング限定で、たまに2回を投げるとイニングまたぎと言って騒がれているが、宮田さんは2回や3回は当たり前、ロングリリーフまでやってのけたのだから、「すごい」の一言だよ。超人的な活躍だが、実は体が弱いからこそ生まれた「8時半の男」だった。心臓の病気があるから、長いイニングを投げられなかった。だから川上監督が抑え投手にした。川上哲治会心のヒット作だ。
 でも、成功したのは、宮田さんの頭の良さ、クレバーな投球があればこそだった。心臓が良くないから、長いイニングだけでなく、短いインターバルでポンポンと投げることもできなかった。そこで、1球1球、十分なインターバルを取って投げる。打者はイライラして打ち気をそらされる。「巨人のピッチャー・宮田」と場内アナウンスがあると、記者席でも「また宮田か、試合が長くなる」と、記者たちが机にペンを放り投げたという話があったくらいだ。

 前橋高校という頭の良い、名門中の名門から日大を経て巨人入りした宮田さんは、税金の申告まで公認会計士を使わずに自分でやっていた。銀行マンが帳簿をつけるような、あの独特な字そっくりそのままだ。キャンプで出金伝票を書いていたのを、この目で見てビックリ仰天したことがある。中学時代に、家紋の研究で賞をもらったこともあるというからね。
 そんな頭の良い宮田さんだから、心臓の悪いことを逆手に取った、じらし投法を編み出したり、健康にいい薬草を煎じて飲んだり、体のケアにも創意工夫していた。“漢方”宮田という別名があったほどだからね。
 球史に名を残す、現役時代の8時半の男は、コーチとしても素晴らしい再生屋だった。一度フォームをバラバラに解体して、投手を作り直す。オレも巨人で一緒に投手コーチをやったが、宮田さんの見事な再生屋ぶりには、感嘆するしかなかったね。今でこそ誰も持っている、チャックのついた手帳を最初に使ったのも、宮田さんだった。ブルペンでの投球数から始まり、事細かに書き付けた宮田さんのチャック付きの手帳は、これまた元祖だったね。

 プロ、アマの垣根なく、選手に情熱的に接していたのも、宮田さんならではだった。プロ、アマ問題があり、プロ野球のコーチのアマチュア選手への指導はいろいろ制約があり、トラブルを起こしかねない。だけど、宮田さんは頼まれると喜んで引き受ける。公になったら、まずいケースがあるので、「宮田さん、注意してくださいよ」と言っても、「いいんだ、いいんだ」と聞く耳を持たない。実際に問題が表面化したこともあったが、本人は意に介していなかった。
 「プロのコーチはさすがにすごい」とアマ球界関係者が喜んでくれるのが、素直にうれしかったんだろう。健康だったら、まだ10年も20年も指導者としてやれたのに、日本球界にとって、大きな損失ですよ、本当に。有能な人材ほど早くいなくなる。

<関本四十四氏の略歴>
 1949年5月1日生まれ。右投、両打。糸魚川商工から1967年ドラフト10位で巨人入り。4年目の71年に新人王獲得で話題に。74年にセ・リーグの最優秀防御率投手のタイトルを獲得する。76年に太平洋クラブ(現西武)に移籍、77年から78年まで大洋(現横浜)でプレー。
 引退後は文化放送解説者、テレビ朝日のベンチレポーター。86年から91年まで巨人二軍投手コーチ。92年ラジオ日本解説者。2004 年から05年まで巨人二軍投手コーチ。06年からラジオ日本解説者。球界地獄耳で知られる情報通、歯に着せぬ評論が好評だ。

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