しかし、伝統的な魔所と言っても小さな小さな森であり、国道14号線に接し、頻繁な車の往来にさらされている。時折、近所の民家に干されていた洗濯物が飛来しており、往時の恐怖は微塵もない。いささか興ざめだが、こんもり茂った森の入口には、小さな鳥居が鎮座しており、筆者も毎年のように取材や撮影で訪れている。
ところで、この「藪知らず」はいったい何故、“禁足地=入らずの森”になったのであろうか。伝説では、水戸黄門がこの森に入り込み、沢山の妖怪に襲われたと伝えられている。そして、黄門の前に白髪の老人が出現し、
「この場所は人間の来る場所ではない」
と諭され、以後水戸黄門の指導により 永く同所は禁足地となり、今に至るとされてきた。だが、実際は水戸黄門と言えども、自国の水戸藩領内ならともかく、他人の土地でそんなお節介を焼くだろうか。
調べていくと、不思議なことに伝説の主人公が近代と江戸期では違うようだ。江戸期は水戸黄門ではなく、ヤマトタケルがこの藪知らずに入ったという設定にされており、水戸黄門伝説が語られ始めたのは、講談や映画の『黄門漫遊記』が庶民に浸透した明治・大正以降のようである。つまり、時代時代の人気ヒーローが藪知らずに入った事になっているのだ。江戸期に各地を放浪するヒーローと言えばヤマトタケルであった。それが近代では水戸黄門が放浪するヒーローの座を奪ったため、「藪知らず」伝説においては 主人公の変更が行われたのだ。
それにしても、なぜこのような不思議な伝説が広まったのであろうか。その謎解きについて多くの研究家・好事家が仮説を披露している。
元々将門軍の本陣の死門(かつて同所にあった立看板によると、仙道で言う鬼門という意味らしい)があった場所であり、将門敗北以降は不吉とされて禁足地になった。或いは、将門配下の七騎武者が同地にとどまり息絶えたから禁足地になったとも言われている。
現実的な解釈としては、他領の飛地であったため、近隣の住民の侵入が禁止されたという説や、将門を討ち取った朝廷側の陣地であったため、将門びいきの地元住民が避けたという説もある。
これは筆者の推論に過ぎないが、藪知らずの藪は付近にある葛飾八幡宮の鬼門の護り(あるいは裏鬼門)ではないだろうか。神社の鬼門に藪を設置する考えは、新編武蔵風土記にその習慣が記述されている。鳩ヶ谷中居村(現鳩ヶ谷市八幡木)の八幡宮の鬼門に竹藪があり、その中の木に触れると祟りがあるという記述である。
特に八幡は武芸・戦争の神として源氏系の武士の信仰を集めたが、鬼門封じとしても珍重された。頼朝が幕府を開いた時、鎌倉幕府の鬼門を守るために「鶴岡八幡宮」を創建したことはあまりにも有名である。
つまり、八幡は都市や組織の鬼門を護る霊的システムであり、同時に八幡自身の鬼門・裏鬼門は「藪」に護らせたのではないだろうか。となると「八幡の藪知らず」とは、何かの鬼門封じの残骸かもしれない。つまり「葛飾八幡宮」の裏鬼門(南西)を守護しており、それが変じて怪異な伝承が生まれたのではないだろうか。
(山口敏太郎)