「城攻めの達人」と評された秀吉は立地の悪い地に城を建築することで防御を固めたほか、あえて敵を引き付けるよう1か所だけ手薄な城壁を作ったとされる。
また、当時の資料によると、大阪城は瓦に金を施したきらびやかな城として描かれており、招かれた大友宗麟は大阪城を見て「三國無双の城」と評した。
まさに「難攻不落」の大阪城であったが意外にもその運命は短かった。築城から15年後の1598(慶長3)年、秀吉が死去。その後、秀吉の遺児の豊臣秀頼が大阪の政権を握っていたものの、1614(慶長19)年に幕府を成立した徳川家康が大阪城へ攻め入り、大阪城は内堀と本丸のみを残す裸城とされてしまう(大阪冬の陣)。その4か月後、あっけなく大阪城は落城した。大阪城はたった32年で豊臣家の手から離れることになった。
秀吉は天才的な機転を持ち「城攻めの達人」と呼ばれた存在だが、家康も決して負けてはいなかった。家康は秀吉ほど奇抜な機転や発想には恵まれなかったが、家康は主に籠城や兵糧攻めなどを用いて城攻めを多くこなした猛者であったのだ。
その後、時が流れ2代将軍徳川秀忠によって大阪城の再建が進められたが、1665(寛文5)年、落雷により天守が焼失。その後も火災のトラブルは絶えず、1868(慶応4)年には新政府軍に大阪城が開け渡される際、混乱によって出火し建築物のほとんどが燃えてしまった。
また、太平洋戦争中にも大阪城は標的にされ、大阪大空襲、終戦日前日の空襲で甚大な被害が出てしまった。戦後も占領軍の失火によって一部が燃えてしまっている。
とにかく”火の因縁”と切ってもきれない関係にある大阪城ではあるが、その背景には落城の際、猛火にまかれた淀殿の呪いがあるのではないかと噂されている。事実、淀殿の墓がある太融寺の真下に位置する「泉の広場」には不気味な都市伝説がある。赤い服を来て、火災を引きこす女の怨霊が出現し、待ち合わせ中に新聞や雑誌を読みふける人間に対し、その所有物を突如発火させるという怪異を引き起こしているのだ。
また、現在のコンクリート制の大阪城(江戸期に再建された大阪城も)は、秀吉が築城した大阪城を地中深く埋めた上に建っており、地中に封じ込められた秀吉や淀殿、秀頼の怨念が色強く出ていると言われている。石垣には秀頼の顔が浮かぶ”人面石”があったり、見た者に死を与える老人の霊が存在すると言われている。江戸期には、畳にはいつくばりながら迫ってくる妖怪「ばばぁ畳」とか、手水鉢の水をかけてくれる怪しい小僧などが出現したと記録されている。今も昔も魔界スポットなのだ。
(山口敏太郎)