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死の教育はどうあるべきか?(2)子供の自殺

 小学校の教師が児童に出した不適切クイズを引き合いに「死の教育」の必要性について書いた続きである。前回の内容に関してmixi上に多くのコメントが寄せられていて、補足すべきことがあるように感じた。少しでも疑問を解消できれば幸いである。

 前回なぜ「殺人クイズ」から「子供の自殺」に話が転じたかと言うと、自殺も殺人であり、自分の死は他人から見れば他人の死だからである。子供の自殺だけでなく、子供の殺人も時おり発生している。義務教育は読み書きだけ教えればいいわけではない。よりよい集団行動のあり方は決して家庭だけで身に付けられるものではないから、何より他人との接し方を教える場でなくてはならない。だからイジメが存在する時点で義務教育は失敗している。しかも自殺や殺人にまで発展してしまうのが問題だ。ケンカ慣れしていないということもあるように思える。

 先生が子供に尊敬されるために、畏怖心を植え付けようと怖い話をしたのかもしれない。東村アキコさんの育児漫画『ママはテンパリスト』にも「ごっちゃん」が言うことを聞くように「鬼」の話をして怖がらせるエピソードが出てくる。教育とは「型にはめること」だ。「ゆとり教育」は「個性尊重教育」とも言われるが、個性は教育からはみだしたところに芽生える。この「ゆとり教育」の余波は大学教育にも影響を及ぼしているだろう。ゆとり教育を受けた子供が既に教師になっている。大学の一般教養課程で履修する哲学と、現実における道徳がつながっていないことも問題だ。

 学校は読み書き計算を教える場所である以前に、集団行動を教える場だ。それは家庭では教えることができない。イジメっ子の名前を遺書に書いて命を断つ子供は、死なないことにはそれを親にも話せなかったということになり、親子の信頼関係にも問題がある。イジメも自殺も共に悪いことだ。けれど未成熟な子供にその全責任を負わせることはできない。学校と親それぞれの責任だ。読み書き計算は家や塾でも学習できる。試験は学校で受けねばならないが、できるだけ人間関係を学べるようにしてほしい。

 ところが親や教師の側にも心を病んでいたり自殺する者もあるから、子供にまで気が回らないのかもしれない。しかしそんな時代だからこそ、自分たちより非力な子供が生きるのは更に過酷であることを、気にとめておく必要があるだろう。(工藤伸一)

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