「スタートは必ず前を取る。そしてなりゆきで先行したり、番手に飛びついたり。いわゆる本線殺しだった。本命ファンには嫌われたけど、穴ファンは俺のこと喜んでくれたと思う。何時も目標はなく闘った。後輩の柳井が出るまでは…。思い切ったレースをしないと上位には食い込めなかった」と大和は回顧していた。
特別競輪のタイトルは獲れなかったが、昭和47年の競輪祭新人王では、藤巻清志(当時・神奈川)の2着に食い込んだ。52年の高松宮杯では(1)(1)(1)で勝ち上がって西日本王座戦も2着と健闘。平成元年のふるダビ・広島では地元地区開催に闘志を覗かせて、決勝まで進出している。選手会でも本部の常務役員を務めるなどの活躍だった。
大和に続いて38期に柳井襄二(旧・譲二)永田敏夫が登場した。競輪学校での成績は永田が1位、柳井は2位で同期の山口健二(東京)や吉井秀仁(千葉)を超えていた。山口勢から久々にスター候補が出てきたのである。
柳井は競輪祭新人王で活躍、昭和53年の新人王戦では吉井秀仁の2着に食い込んでいる。また小柄な体だがダッシュを活かした先行・まくりで強敵相手に健闘した。