まず、逮捕された際、すでに県内で新聞に実名で事件が報道されてしまっていた。そのことによって、青木さんは事実無根の「わいせつ犯」という目で見られてしまう。
しかし、そうした事実無根の風評は、精神的な屈辱とどまらず、「実害」として現実のものとなって現われた。
青木さんは妻と息子の3人で1977年から建材会社を経営していたが、事件直後から「ハレンチな事件を起こすヤツとつき合いはできない」とばかりに、取引の打ち切りが相次いだ。県内に200社はあった取引先は、事件後には5分の1以下に激減した。
さらに、銀行などの金融機関までも、青木さんが警察沙汰になったとの理由から取引を停止されてしまう。
そこで青木さんは、釈放後の同年10月、「虚偽の被害届によって逮捕され、社会的な信用が著しく損なわれた」として、諒子を相手取り、300万円の損害賠償を求める訴訟を地裁会津若松支部に起こした。
しかし、訴訟の結果が出るまでにはかなり時間がかかる。その間、青木さんの会社の経営状況は急激に悪化していった。そして、事件から1年後の2001年8月、ついに廃業を余儀なくされる。事実上の倒産だった。
それまでは、まじめにコツコツと働いて普通に生活していた青木さん夫婦と息子は、生活にも困るようになっていった。
廃業時、気がつけば数千万円の借金ができてしまっていた。廃業した社屋の一部を貸店舗にしたものの、家賃収入は13万円程度。それに受給した年金を合わせても、銀行への返済ですべて消えてしまう。廃業後に青木さんは、慣れないアルバイトをして生活費の足しにしている。それでも、暮らしは非常に厳しい。
さらに、青木さんの息子も失業状態となり、その後離婚してしまった。
一方、青木さんが起こした民事訴訟の口頭弁論では、諒子は真っ向から争う姿勢をみせた。
「たしかに青木さんからわいせつ行為を受けた」
「被害届は本当。私はウソなんてついていない」
あくまで青木さんからの「わいせつ行為」を主張し続けたのである。
そして、2001年11月に、福島地裁会津若松支部判決で言い渡された。
(つづく)