だが、この金印が発見当時の鑑定者である儒学者、亀井南冥(なんめい)の偽造だという説が頭をもたげてきているのだ。
その発端となった『金印偽造事件』(幻冬舎刊)は、千葉大学名誉教授・三浦佑之氏の著作であり、大胆な推理展開で読者を興奮させている。金印の真贋論争については発見以来何度かあったが、この書籍で論じられている内容は、かなり激しいものとなっている。今回はこの書籍での記述を参考に話を進めさせて頂く。
そもそも、金印は天明4(1784)年、水田の溝から発見され、福岡藩の儒学者・亀井南冥が鑑定、福岡藩(黒田藩)に保管されてきたものである。
この金印が本物だという根拠は、以下の三点になる。
1)文字が彫られた面の長さ(一辺約2.3cm)が、漢王朝の一寸と合致する点
2)戦後、中国にて、同じ蛇形のつまみを持つ金印が発見された。
3)そっくりな字体での金印、「廣陵王璽」(西暦58年に光武帝の子に贈与)が出土。
この金印が偽造とする根拠は、
1)同じ蛇鈕でも前漢代に造られたとされている「テン王之印(※テン=さんずいに眞)にくらべて造形が稚拙。
2)江戸時代でも漢代の一寸の印を造ることは可能。
3)出土場所が不明。また、発見者の甚兵衛が住民記録にないなど、発見時の記録があいまいである。
2)に関しては、金印に関する記述が文献に残っている事、また、漢代の尺に関する資料は当時でも容易に得られた事から、当時の技術であっても、文献の記述を元にすれば、正確に再現することが可能であるとされている。
また、3)に関して、地元の記録では、発見者の甚兵衛は地主であったとされている。しかし、「黒田家家譜」の記述によれば、文化六(1809)年、甚兵衛火事と呼ばれる大火が発生、110戸が延焼したとされている。この時の火元が正に発見者の甚兵衛の屋敷であり、彼は大火の責任を負って志賀島から出たとされている。それ故に住民記録から名前が抹消された可能性も考えられるそうだが、逆に甚兵衛が初めから存在しなかったならば、大火に乗じて消えたという設定にできる。
つまり、金印の発見は亀井南冥の名声を上げ、藩校甘棠館(かんとうかん)の開校を図るのが目的であるというのだ。
国宝である金印発見の背景に、隠されたストーリーが存在していたと考えるのも、面白いのではないだろうか。
参考文献 金印偽造事件−「漢委奴國王」のまぼろし 三浦佑之 幻冬舎
(山口敏太郎)