個性の強さからくる「ワンマン」の異名の一方で、戦後の日本再興へのレールを敷いたのが吉田茂元首相であった。第2次大戦の敗戦で荒廃した占領時代に、国民を飢餓から救うため経済復興に尽力、独立と国際社会への復帰を築いた吉田は、一方で批判の声はあるものの戦後宰相の中で第一人者であることは認めざるを得ない。
戦後間もなくの昭和21年5月、外交官だった吉田に、旧憲法下、天皇の大命が下り、第1次吉田内閣を発足させた。時に67歳、外交官一筋で政治経験ゼロだった吉田は、この内閣でまず大きく3つの使命を果たしてみせた。1つは新憲法制定の議決、2つは民主化を進めるための大地主の権利縮小、対して小作農民の権利拡大という農地改革法の成立、3つは食糧危機への対応のためGHQ(連合国軍総司令部)を説得しての小麦の緊急輸入であった。
2つ目の農地改革は、その後の保守政治の核となっていった点で特筆に値した。すなわち、農村部がその後の保守勢力の票田となり、一方の都市部の労働者が革新勢力を支えるという構図がこの時期つくられたということである。
そうした中で、吉田のリーダーシップが発揮されたのは、新憲法施行前の改正選挙法での初の総選挙で、衆院の議席を得た後の第2次吉田内閣からであった。ここで、吉田は政治生命を賭けた。大戦後の講和条約を参戦国すべてと「全面講和」を結ぶか、個々の国々と「単独講和」を結ぶかであった。対日賠償など各国の要求条項が異なり、その後の国際関係の中での日本の在り方などをにらめば、極めて難しい決断の場であった。
吉田は講和とはあくまで戦勝国と敗戦国の間で個々に結ぶものとして、最終的に「単独講和」を決断した。ここで吉田一流の交渉術の決め手、すなわち「当事者能力のある者と交渉する」が全開したのだった。当事者能力のない者といくら交渉しても、しょせんは“小田原評定”に陥ることを読み切っていたのである。それが、表記の言葉になっている。吉田はGHQで当事者能力ある人物をGHQ最高司令長官のマッカーサー元帥1人に定め、他の幹部との交渉は一切断ったということだった。
こうしたマッカーサーとの交渉は、直接折衝としての会談75回、書面でのそれは131通にも上った。
結果、昭和26年9月8日、吉田は米サンフランシスコで48カ国との「単独講和」条約の調印にこぎ着けた。
ちなみに、吉田はそれまで米ソ冷戦時代に入ったことで、日本を極東の防壁としたい米国の強い再軍備要求を受け「戦力なき軍隊」として警察予備隊、海上保安庁、保安隊の設置でお茶を濁してきた。だが、昭和25年6月に勃発した朝鮮戦争で米側の再軍備要求がさらに強まったため、やむなく日米軍事同盟としての日米安保条約も講和条約の場で同時に調印している。この安保条約も、巧みな呼吸合わせで当事者能力を持つダレス国防長官に絞った形で交渉、ギリギリの落着で手を打ったのだった。講和条約調印まで好物の葉巻を断っていた吉田は、調印直後に米側から贈られた高級葉巻一箱の封を切り、その夜、なんともうまそうに“解禁”の1本をくゆらせた。
その吉田は委員会審議のさなか「生意気なことを言うな」「無礼者、バカヤロー…」などと何とも傍若無人、強気の発言で政権運営を行ったが、この「バカヤロー」がたたって解散に追い込まれた。結果は敗北。かろうじて第5次内閣を組閣したものの7年2カ月の長期政権にピリオドを打ち退陣、政界引退を余儀なくされた。5次にわたった吉田内閣の閣僚数はじつに104人。わが国政治史上最多の大臣“大量製造”であった。一方で人も育て、「吉田学校」の名の下にその後のわが国をけん引した池田勇人、佐藤栄作、田中角栄といった人材を輩出させている。
引退後の吉田は相変わらず生臭く、元気そのものであった。敷地1万1千坪、その名も人を食った『海千山千楼』と命名した神奈川県大磯の邸宅で、夫人を亡くした後、吉田の身の回りの世話を続けてきた元新橋芸者の名妓「小りん」と生活を共にした。また、政界への影響力も保持し、政変のたびに自民党の実力者が次々と足を運び、これは「大磯詣で」とも言われた。昭和42年10月20日、心筋梗塞のため89歳で死去。戦後初の国葬が行われた。
交渉事はすべからく、当事者能力のある者は誰かという見極めで成否が分かれる。リーダーはその“眼力”を磨けと、吉田は教えている。=敬称略=
■吉田茂=第45、48、49、50、51代内閣総理大臣。東久邇宮内閣、幣原喜重郎内閣の外相などを歴任。戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、再興の礎を築く。その風貌から「和製チャーチル」とも呼ばれた。
小林吉弥(こばやしきちや)
永田町取材歴46年のベテラン政治評論家。この間、佐藤栄作内閣以降の大物議員に多数接触する一方、抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書多数。