「これなら行けると思ったのは、門司のレースで戸上守(福岡)さんと当たって競り勝ってから。西では一番のマーク屋になったと自信を持ちました」
それからは「クレージー」笹田伸二(徳島)に競り勝ち、門司では田中博(群馬)の後ろを山口国男(東京)と競って勝ったが、あまり強引に行き過ぎて失格。レース後に制裁審議会にかけられ門司競輪の1年間斡旋停止を食らったこともある。
田中博と須田一二三(三重)と松本の仲の良さは競輪界では有名だった。田中に稲村がつくなら松本も遠慮するが、同じ関東でも東京の山口、しかも後輩の競り屋には負けられない気持ちがあったのだろう。強引な体当たり戦法、競り負けるくらいなら落車してもいいという気迫は同型に恐れられていた。
「競り屋でこいつはすごいと思ったのは工藤元司郎(東京・茨城)くらい。あの人は当たりに行ってもはじき返してくるくらい重かった」
特別競輪の優参は昭和47年の大垣オールスター、47、48年の小倉競輪祭。大垣では特別制覇のチャンスがあった。福島正幸―稲村雅士の群馬ラインにG前詰め寄ったが届かなかった。「勝ち上がりの段階で落車・失格が多かった。ここと決めたらラインは関係ない。どこのラインにも競っていった」。競走形態が変わった現在、松本流の競りは難しくなったが、マーク屋同士の競りは「競輪は格闘技」と言わせ、多くのファンを沸かせたものだった。