幼稚園児の頃に、知人宅で飼われていた猫と遊んでいたら、目の周りがぶくぶく腫れてきて、驚いた親が病院に連れていき、猫アレルギーであることが発覚した。けれども何年かして何故か症状が出なかったので、治ったのだろうということで、知人宅から預かった猫を飼うようになったのである。
しかし大人になってから喘息を発症した際に受けた検査結果で、治ってなどいないことを知った。ハウスダストや花粉などもアレルゲンになっているため、猫に近づかなければ大丈夫というわけではない。そもそも喘息発作が初めて起きたのは、猫のいない場所だった。他の人の衣服に猫の毛が付着してることもあるから、根本的には防ぎようがない側面もある。
2005年に花粉症の発症を苦にした石原都知事が、スギの伐採を命じたことがあった。花粉症になる人は増加傾向にあり、動物アレルギーも同様に増えていると思われる。現代人がアレルギーになりやすいのは、環境が清潔すぎるからとの説もある。確かに昔に比べて何かといえば除菌をするので、抵抗力が奪われてしまったようには感じられる。とはいえ、いったん失くしてしまった力を取り戻すのは、簡単なことではない。
前回の終わりに「身勝手なのはペットを捨てる飼い主だけではなく、何もしてやれない人類そのものであり、皆で罪を背負っていくべきだ」と書いた。これは僕自身がアレルギーを抱えながらも猫と暮らさざるを得ない宿命に、業を感じ取ったせいでもある。だから別に誰もが動物を飼わねばならないなんてことはないけれど、飼い主を敵視するようなことはやめてほしいとの思いがある。
前回の文章を読んだ方から「ペットを飼う」という表現が好きになれないという意見があったけれど、言われてみればその通りだと思う。人間のエゴのために動物を飼うのではなく、僕らは動物の世話係に過ぎない。主体は人間ではなく動物の側なのだ。動物は人間と共に暮らしてくれている。だから僕らは彼らの世話を怠ってはならない。
また「人類の罪」という言葉に「お前は新世界の神にでもなったつもりか」と拒否反応を示す方もいた。もちろん僕は神ではない。だから動物の命をみだりに奪う権利もない。アレルギーや住環境などの都合で同居できないケースも多いけれど、そもそも僕らは同じ地球で一緒に暮らしてきた仲間なんだ。宇宙の片隅で肩寄せ合いながら、どうにか仲良くやっていきたいものである。(工藤伸一)
身勝手な人類の一員としてペットを飼うということ(1)
http://npn.co.jp/article/detail/07021667/
身勝手な人類の一員としてペットを飼うということ(2)
http://npn.co.jp/article/detail/24793928/