その中に香り高い名木として知られる「匂い桜」が忠魂碑の前にある。「匂い桜」は由緒ある桜として、昔から歌にも詠まれていた。現在は2代目になってしまったが、『富士紀行』、『覧富士記』、『爲家歌集』、『三河紀行』、『夫木和歌抄』などに詠まれた句が載っている。
また、境内の拝殿近くに台座を含めて約1m程の自然石できた「匂い桜」の歌碑が建っている。「立帰り猶見てゆかん さくら花 衣の里ににほう盛りを」と刻まれており、昭和45年に建立された。この歌は鎌倉時代・文永2(1265)年、三河守左近中将呉氏が詠んだとされ、白河殿歌合せ、『夫木和歌抄』にも収録されている。
桜の前には、「木のもとに 汁も鱠も 桜かな」と、俳聖・松尾芭蕉(1644〜1694)が詠んだ句碑も建っている。この桜の句は、元禄3(1690)年3月2日、芭蕉が伊賀上野にある風麦亭で作られた句であるが、このような句碑は、全国各地の桜の名所に多く建てられているものである。
松尾芭蕉の句碑は寛政11(1799)年10月12日に建立されたが、建立者は不明である。もともとは挙母神社の境内にある桜の根元の草むらに台座なしの状態で埋もれていた。大正15(1926)年、地元の俳人・松村晩翠と俳人衆13名によって、現在の匂い桜の前に移され、石積みされた。
また、挙母神社がある付近一帯は衣の里と呼ばれ、古くから名勝地であったため、その名は様々な文献に書かれている。「ころも」という文字は衣、許呂母、来藻、挙呂母などの漢字があてられた。『和漢三才図絵』には「衣の里二村山之来た一里」と、『千載集』には「ほど近く衣の里になりぬらん 二村山を越へてきつれば」と、『東方説話』には「左の方に衣の里衣街道といふあり、衣の里へ行く道とや、春は霞、桜・梅、夏は卯の花・ほととぎす、名に負ふ衣の里と云へ侍べれど、程遠ければ見にも行かれず」とある。
(写真「挙母神社の芭蕉句碑」愛知県豊田市挙母町5丁目1番地)
(皆月斜 山口敏太郎事務所)