さて、今回スポットを当てた第42回(1982年)優勝馬アズマハンター(父ダストコマンダー、美浦・仲住芳雄厩舎)も厩務員春闘に翻弄された末の栄冠達成だった。
ケイコ役を務めた浜嶋福三助手は、その時の緊迫した状況を次のように振り返った。「京葉労組(現トレセン労組)が開催スト通告をしていた。(アズマハンターの)担当厩務員が京葉労組にいたため、レース前夜に別の厩務員が中山競馬場まで馬を運んだ」という。
幸い、レース当日の未明にストは解除された。件(くだん)の担当厩務員はそれから、おっとり刀で中山競馬場にかけつけた。レースは、今は亡き中島啓之騎手と人馬一体となり、一気に頂点を極めたのだった。
皐月賞は、(3走前から)中島啓騎手に乗りかわり、逃げ馬から差し馬へ脚質転換を図った集大成の舞台でもあった。ところが、浜嶋助手はその瞬間を栗東トレセンでテレビ観戦していたという。「ミナガワマンナ(天皇賞・春に出走するため栗東に滞在)のケイコをつけに行っていたんです」。肌で優勝の喜びを味わうことはできなかった。が、第一印象で走る馬と直感した浜嶋さんの相馬眼は正しかった。「2歳で入厩してきた時点で完成されていた。古馬のような雰囲気と、パワーがあった」と感慨深げ。こんなエピソードがある。「無茶苦茶引っ掛かる馬だったね。角馬場を15-15のキャンターで走っちゃう(笑)。だから他の馬は怖がって寄り付かなかった」。その時間帯、角馬場は貸切状態になっていた。
その当時は、アズマハンター以外にも、個性的な馬が数多くいた。その個性がまた魅力でもあったのだ。ダービー(3着)、菊花賞(13着)と3冠すべてに出走したが、不幸は突然やってきた。
有馬記念の最終追い切りで骨折し、引退を余儀なくされてしまう。その後、種牡馬になったが、第2の人生は不遇だった。通算成績は14戦4勝(うち重賞、皐月賞)