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遠い記憶 根岸競馬場の歴史(7)

 現在の天皇賞の礎ともなった天皇花瓶競走(1880年=明治13年)の観覧席には有栖川、伏見、東伏見、北白川の各宮と、伊藤博文、黒田清隆らの政府首脳が勢ぞろいし、各国外交官や居留外国人らと、そのスタートを華やかに飾った。
 根岸競馬場と、ここを舞台とする日本レーシングクラブは、国際友好に乗り出す明治政府の切り札的な存在でもあった。
 このように1866(慶応2)年、根岸競馬場が誕生後は、横浜で育ちつつある近代競馬を見習って、1870(明治3)年に東京・九段の招魂社(のちの靖国神社)で競馬が催されたのをはじめ、1877(明治10)年には東京の三田育種場で、1879(明治12)年には、同じく東京・新宿の陸軍戸山学校で、さらに1884(明治17)年には上野不忍池畔などで、いずれも円形馬場による競馬が行われている。

 明治時代、日本レースクラブの委員には、政府要人のほか、各著名人が名を連ねていた。
 皇族たちも、しばしば根岸競馬観戦に来られているが、1881(明治14)年5月10日、春季競馬第2日には、明治天皇が初めて根岸競馬場へ行幸された。以来、1899(明治32)年5月9日まで、天皇の根岸行幸はほぼ毎年のように続いて13回を数え、天皇の競馬好きが国民の間で印象づけられた。
 天皇は新橋から汽車でこられ、そこから馬車で地蔵坂を上り、相沢(今の山手町)の通りを行き帰りされたのであろう。一般の内外人らも、競馬場へは馬車か人力車が頼りだった。天覧競馬のレース当日などは、横浜中の祭典といってもよかった。市内は、その話題で持ちきりとなり、まるでスペインの牛祭のような騒ぎとなった。
 ※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬
 

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