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【幻の兵器】量産に成功していたら…毎分10発の速射が可能だった五式十五糎高射砲

 太平洋戦争開戦当時、日本陸軍は野戦機動が可能な十一年式七糎半野戦高射砲と八八式七糎野戦高射砲、陣地固定用の十一年式七糎半陣地高射砲に十四年式十糎高射砲、九九式八糎高射砲を保有、あるいは装備していた。だが十一年式高射砲は野戦、陣地とも完全に旧式化していたため全く戦力にならなかったし、大型の十四年式十糎高射砲も発射速度や初速が低く、戦力価値は限られたものだった。

 しかし1942年にドーリットル中佐が率いる爆撃機隊が東京をはじめとする日本各地を空襲、損失なく逃亡した。爆撃の被害自体は皆無に等しかったが、日本陸軍は本土防空能力の欠如を痛感させられた。

 陸軍はあわてて本土の防空兵力を増強すると同時に、各種高射砲の開発を強力に進めた。また、その過程でアメリカが開発に成功した超高高度を飛行する爆撃機の情報を入手したことから、陸軍はさらに優れた能力を持つ高射砲を開発する必要があると判断した。このような情況の下で、五式十五糎高射砲は開発されたのである。

 しかし、当然ながら高射砲は大きな仰角で射撃することがほとんどで、大きくて重い砲弾を装填する装置は、非常にごつく、しかも複雑な機械であった。ただ、自動装填装置といっても、弾薬庫から運び出した弾を揚弾機に載せるまでは、人力でこなさなければならなかった。重さ90キロの弾薬筒を運ぶには複数の装填手が必要で、それでもほとんど限界に近い重量だった。だが、いったん弾薬筒が弾薬台から揚弾機に載せられると、レバー操作で装填板、自動起動機、装填機が動きだし、自動的に薬室に装填されるのみならず、装填中に信管が測合されるしくみになっていたのだ。

 これにより、毎分10発という速射が可能になっていた。そのうえ、高射砲弾は空中で爆発することで敵機を撃墜するため、発射前に時限信管のタイマーをセットする作業、測合を行う必要があり、装填装置はますます複雑なものとなった。ただし、複雑な装置ではあるものの、開発の障害になるようなことはなかった。

 問題は、高射砲の砲身そのものにあった。当時、日本の冶金技術はまだまだ発展途上にあった。そのため、発射の際に生じる巨大な圧力や、砲身内で燃焼する火薬ガスによる焼損に耐え、しかも発射弾頭が水平に近い弾道を描くという、高度な要求を実現するために必要な全くゆがみのない、丈夫な砲身を製造することが困難だったのである。しかも、五式十五糎高射砲は、日本軍の装備した火砲の中でも屈指の長砲身火砲であり、これを上回る口径の火砲は、海軍の六五口径九八式一○糎連装高角砲ぐらいしか存在しない。

 不眠不休の努力の末、完成した砲身の重量は約10トンとなり、方向旋回体(砲台の回る部分全体)の総重量は45トンという巨大なものだった。このため、照準は電力と水圧を利用して機械的におこなう一方、人力による照準も可能なようにした。

 マリアナが1944年に陥落し、アメリカはそこを拠点として日本本土への空襲を本格的に開始した。高高度を飛行する米爆撃機に対して、旧式の八八式七糎野戦高射砲は全く無力で、三式十二糎高射砲でさえ能力不足と考えられた。そのため、日本陸軍は総力をあげて五式十五糎高射砲の完成を急ぎ、ようやく1945年に大阪造兵廠と日本製鋼所広島工場でそれぞれ1門ずつ、計2門の五式十五糎高射砲が完成、東京の久我山に据えつけられた。巨大高射砲は1945年8月2日に2機のB29を撃墜したものの、新型高射砲の存在を知った米軍は久我山付近を避けて通るようになった。その上、半月後には日本が降伏したため、その他の戦果は全くない。敗戦後、その2門から日本製鋼所の製造した1門がアメリカに接収されたが、その行方は明らかになっていない。

 もしも日本軍が本当に五式十五糎高射砲の量産に成功していたら、米爆撃機に深刻な打撃を与えることも夢物語ではなかったろう。とは言え、戦後にそれらの火砲を接収した米軍はほとんど興味を示さなかった。ドイツが開発を進めていた誘導対空ミサイルの方がより重要で、かつ将来性に富んでいるというのが、その最大の理由であった。

(隔週日曜日に掲載)

■五式十五糎高射砲
重量:砲身9.2t、方向旋回体総重量45t
寸法:砲身長9m(60口径)
高低射界:0〜+85度
方向射界:360度
最大射程:26,000m
最大射高:19,000m

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