西部警察で人気を博した俳優・苅谷俊介氏(72)は、俳優になる前から考古学が好きだった。考古学との出会いは、高校2年生の時。「学校をサボる」ため、発掘場所に立ち寄ったのがきっかけだったそうだ。だが、今から約40年前、事務所の看板俳優・石原裕次郎さん宅の建て替え工事の際に遺跡が出土した。その際に行われた発掘調査を見て、考古学への情熱が再燃。俳優の仕事の合間に、アマチュア考古学者の活動を開始したのだという。後に考古学研究に集中するため、石原プロを退社。現在も俳優活動と考古学の研究の両方を続けており、論文も発表している。多くの遺跡に調査で訪れているが、中でも纒向遺跡の調査・研究は30年以上の長さになるという。
纒向遺跡は奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯に広がる、弥生時代末期〜古墳時代前期にかけての集落遺跡であり、魏志倭人伝にも記された邪馬台国ないしは、その中心にあたるものではないかとみられている。なお、近くには卑弥呼の墓とする説もある箸墓古墳など、6つの古墳が存在している。
纒向遺跡は1937年(昭和12年)に土井実氏によって、「太田遺跡」として「大和志」に紹介されたのが最初となる。その後、2009年(平成21年)には大型建物跡が発掘されるなど、次第に巨大な集落であった事が明らかになった。その後も、桃のタネ約2,000個や魚の骨、イノシシなどの動物の骨が遺跡より出土しており、恐らく何らかの供え物として用いられたものだったと見られている。つまり、纒向遺跡では一種の宗教が重要視されていたこととなり、鬼道を用いて国を治めていたという卑弥呼の記述とも一致する。
苅谷氏は20年前に考古学の著作「まほろばの歌がきこえる」(エイチアンドアイ)を発表。同書において、纒向石塚古墳の後円部が国内最初の前方後円墳と推定、更に太陽祭祀の祭壇ではないかと推理を推し進め、東へ延びるラインを中心軸として宮殿域地を指摘した。因みに、飛鳥時代(7世紀)以降の宮殿は南北軸が基本であり、今回の東西軸は珍しい事例である。
(山口敏太郎)