ソントンさんは日本マットにもたびたび登場していたが、初来日は1970年11月の国際プロレスとかなり古い。その後、ヨーロッパからカナダに主戦場を移し、昨年亡くなったダイナマイト・キッドさんら後輩たちがヨーロッパから北米に渡る道筋を作った“先駆者”とも言えるレスラーだった。カナダのスタンピード・レスリングに参戦中、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ビッグ・ジョン・クインといった大物ヘビー級選手を破り、北米ヘビー級王座を2度獲得している。70年代はヘビー級戦線で活躍。タッグ屋としても数々のタイトルを獲得しており、後にニューヨークの帝王となるボブ・バックランドのチームからも勝利を収めている。
当時世界一のプロモーター連盟だったNWAの会員が管轄するテリトリーで活動していたソントンさんは、1980年にNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得。しかしNWAの内部紛争により、ビンス・マクマホン(シニア)、新間寿氏(当時、新日本プロレス営業本部長)ら反主流派がスティーブ・カーンを新王者にもう一つのNWA世界ジュニアヘビー級王者を認定していた。
しかし、最終的にはソントンさんが正式な王者に。カーンの王座はNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座と改称され存続したが、チャボ・ゲレロが王者のまま新日本から、NWA主流派だったジャイアント馬場さんの全日本プロレスに引き抜かれたため、全日本はインタージュニア、世界ジュニアと名称を変更し現在に至っている。全日本の世界ジュニア王座は新日本が作ったタイトルが源流なのだ。ちなみにインタージュニアは大仁田厚が巻いて全日本ジュニアの顔になったベルトでもある。
80年の年末には全日本の『世界最強タッグリーグ戦』にビル・ロビンソンとのタッグで参戦。アメリカでは何度か王座から陥落しているが数日で取り返している。81年には新日本に来日。NWA王者のまま藤波辰巳(辰爾)が保持するWWFジュニアヘビー級王座に2度挑戦するも藤波が連続防衛。
そして82年5月に来日した際、当時人気絶頂だった初代タイガーマスクの挑戦を受けるもこの試合に敗れて王座陥落。タイガーはこの後、初代ブラックタイガーを破りWWFジュニア王座も奪還し、史上初のNWAとWWFの二冠王に輝いた。当時、新日本の選手はNWA会員だったにもかかわらず、主流派である全日本を優先し、NWA世界ヘビー級王座に挑戦できかった。タイガーのNWA王座奪取は画期的な出来事として大きく取り上げられた。
その後、IWGPジュニアヘビー級王座を設立するまで、NWA世界ジュニア王座は新日本マットに定着していた。帰国後もソントンさんが王者として活動し続けたことが日本でも報道され、日本のファンからヒートを買っていた。その分、印象に残る名レスラーとして忘れられない存在となっている。晩年はWWEにも参戦し、ミック・フォーリーとのタッグで、後輩のブリティッシュ・ブルドッグスのWWE世界タッグ王座に挑戦するなど、実力派レスラーとして活躍。1986年には全日本の常連レスラーとなるジョニー・スミスから英連邦ミッドヘビー級王座を奪取した。リタイア後はカナダのカルガリーで新人選手の育成に励んでいたようだ。
キッドさんに続いてソントンさんが亡くなり、かつてタイガーマスクの対角線に立ち、ちびっ子たちから敵意を持たれていた名レスラーがまた一人いなくなってしまった。
『ワールドプロレスリング』が金曜夜8時に放送され視聴率が20%を超えていた時代のレスラーは、あの頃プロレスを見ていた人なら必ず思い出す。タイガー対ソントンは今見ても名勝負。NWA世界王者としてソントンさんの「簡単には負けられない」という気持ちが強く感じられる試合だった。心よりご冥福をお祈りしたい。
文 / どら増田
写真 / 萩原孝弘