さらに50、51年と連続して特別競輪に優参。51年の競輪祭では阿部良二(岩手)―岩崎誠一(青森)の3着だった。このころ3連単があったならファンの期待に十分こたえたであろう。
戦法が先行まくりだった中田彦(29期)は粘りのあるレースで特別戦線でも活躍した。昭和56年の高松宮杯では優参して久保千代志(当時・愛知)―井上茂徳(佐賀)の3着に入っている。
変わり種はノンプロ野球の大倉工業で捕手として活躍した後、競輪に転向した富原忠夫(43期)だ。競輪選手になる以前から所帯持ちだったが、奥さんの協力があって競輪学校に入った。
怪物・滝沢正光(千葉)以上の巨躯の持ち主で競輪学校では、普通3.33のギアしか使わせないが、「これでは空回りして練習にならない。そこで特別仕立ての3.64ギアで練習させた」(当時の教官)という怪力の逸話が残っている。デビューしてからは先行一本。主導権を獲ると馬力に任せての逃げ切りもあり、穴ファンを喜ばせた。
途中からは選手会支部長に推され手腕を発揮した。全国50場で下から2番目の売り上げだった小松島競輪場に「ふるさとダービー」開催の呼び込みに貢献した。現在も本部役員として選手育成に活躍している。