しかし、その一方で持ち前の“稚気”ぶりもいかんなく発揮した。稚気とはいわばチャメッ気であり、これは社会で立派な「男の武器」になる。いくら仕事ができても、人物が固い、暗いでは、周囲の人気は沸かない。対して、面白くいささかおっちょこちょいといった明るい性格の持ち主の方に人気は集まるのである。いい大人がふとのぞかせるチャメッ気に、ご婦人は極めて弱いのは知られている。
そんな田中が、世間の一部に反発を呼んだものの、圧倒的な好感をもって迎えられた“事件”が、郵政大臣就任からさほど経っていない中で起きた。その発端はいかにもの「型破り」ぶりに目を付けたNHKが、当時の人気ラジオ番組『三つの歌』へのゲスト出演を願ったところにあった。「大臣にさわりでもいいから、一曲歌わせてみれば大成功」というのが、NHKの思惑でもあった。
元来、開けっ広げの性格の田中は二つ返事でOK。時の司会者は“茶の間の顔”として人気抜群、後に参院選で当選、田中派入りすることになる宮田輝アナウンサーであった。
事前の打ち合わせで田中は、それなら童謡『赤い靴』をやるとしてリハーサルに入った。田中は歌いだしたものの、しかしどうも『赤エ靴ゥ〜、はいてたァ…』となってしまう。越後出身の田中にとって、「イ」の発音はどうしても「エ」としか出てこないのである。「こりゃ、ダメだ。他のに変えてくれ」で、2曲目のリハーサルは歌謡曲『湯島の白梅』となった。しかし、やはりダメである。『お蔦、主税のォ』まではいいのだが、その後が『心エきィ(意気)〜』となってしまう。それを見てとった宮田アナ、「それではナニワ節でいかがでしょう」と水を向けると、少年の頃から浪曲に親しんでいた田中は、直ちに「ヨッシャ」、玉川勝太郎の十八番『天保水滸伝』の一席と決まった。
さて、本番。田中は「イオ〜」のカケ声とともに、顔を紅潮させながらシオカラ声できばり始めた。
常陸鹿島の明神さまのォ〜
年に一度の棒祭りィ
迎郷近江遠国からもォ〜
集まる顔役親分衆ゥ
賭場に小判の雨が降るゥ〜
さぁ、たまらない。NHKには、このナニワ節が始まるや抗議の電話が殺到した。「公共放送。それも現職の郵政大臣が登場して『賭場に小判の雨が降る』とはナニゴトか」というクレームの山である。しかし、この“事件”は幸いにも大臣の進退問題までには至らなかった。もっとも、この程度でひるむ人物ではない田中は、その直後の徳川夢声との週刊誌の対談でも余裕しゃくしゃく、ケロリとこう“事情説明”をしたものであった。
「私はあの『天保水滸伝』をウナる直前、さすがにちょっと考えたんです。放送の教育性を言ってる手前、ホントにこれでいいのかと。かといって『杉野兵曹長の妻』は少し回顧趣味だし、『壺坂霊験記』がいいかなと思っておったら、司会者がちょっと天保水滸伝でもと言ったんで、そのォ、向こうの顔を立てたワケですナ。玉川勝太郎さんは日本人的な哀調を帯びた、しかも歯切れのいい“投げ節”でね、低い声で抑揚がなく男に向くんです。始めて、いい調子だ、これでいいかと思ったらエライことになった。今度やるときは、文芸浪曲調で『南部坂雪の別れ』でやろうと思っていますよ。
しかし、そのォ、全国からいろんな手紙をもらっていますナ。“全逓”の諸君からも来てるんです。『ラジオでアレを聴いて、初めてわれわれの大臣だという気持ちになった』と。こういうものをもらっているから、ナニクソッと思っていますよ」
田中はこの『三つの歌』の後、その年、大晦日のNHKテレビ『紅白歌合戦』の審査員としても出演した。司会者が「大臣、どちらに軍配ですか」と問うと、「男性軍がニジョマル(二重丸)ですナ」と懲りた様子は全くなかったのである。
郵政大臣在職中の田中のテレビ、ラジオへの出演回数は、結局、十数回に及んだ。テレビのこうしたバラエティーものに出演した政治家は、田中をもって嚆矢とするのである。『天保水滸伝』“事件”後の参院本会議場では、大臣としてヒナ壇に座るとすかさずこんなヤジが飛んだのだった。「そこでナニワ節をやってみろッ」と。
田中はこの郵政大臣在任中の昭和33年5月の総選挙で、初のトップ当選を飾った。この選挙から政界引退まで一度としてトップ当選を譲ったことはなかったものである。
しかし、後に田中は「ホントにその気になって、冗談半分でもあそこ(参院本会議場大臣ヒナ壇)でウナッていたら、以後の私の議席はなかった」と述懐したものだった。
(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。