マスコミは「川上さんの茶坊主」と書き立てたが、とんでもない。体は小さいが、度胸が良く、アイデアマンだった。我々をうならせる斬新なアイデアは尽きることがなかったよ。
たとえば、打順でサインを変える。1、2番。3、4、5番のクリーンアップ。6、7、8番。こう3つに分けて、それぞれのサインを決める。スクイズのサインも牧野さんならではのものだった。三塁コーチャーボックスのホームベース寄りに立って、後ろで腕を組み、何気なく指を3本出す。相手バッテリーは気がつかないが、「3球目にスクイズ」のサインなんだ、これが。
「サインは複雑過ぎると失敗する。シンプルなのが相手に見破られずに一番いい」というのが牧野さんの持論だったからね。固定観念にとらわれない、柔軟性も持ち味だった。
キャンプの時に、こんな牧野提案があった。一、二塁間を抜かれたヒットの時、投手が一塁ベースカバーに行かずに外野手からの送球のカットマンになれないかというんだ。野球に関しては一家言ある我が小姑軍団がワイワイがやがや。牧野さんは平然として「そこの小姑軍団、明日から3日間やるんだよ」と宣言する。
実際にやってみると、末次さんら外野手の矢のような送球をオレや倉田さん、菅原さんなどが捕球できるはずがない。取れるのは、野手に転向しても成功間違いなしといわれた野球センス抜群のホリさん(堀内)くらいだ。結局はボツになったが、いろいろな斬新なアイデアを考え、実際にトライしてみる。口うるさい連中もカンカンガクガクしながも、夢中になって練習に取り組む。その一体感の効果は大きかったよね。
かと思えば、コーヒーカップを手にして、投手と捕手のバッテリーミーティングにふらりと現れる。「オレも入れてくれ」と。黙って聞いていて、最後に一言感想を漏らす。
「あのバッターが当たっているとか、対バッターでミーティングをやっているが、投手主導でやってみたらどうだ。自分の得意なボールを投げれば、そうは打たれないんだから」。
どうしても相手のバッターの研究に陥りがちな落とし穴を指摘して、発想の転換をさりげなく促すのだ。川上さんの茶坊主どころか、V9の名参謀といわれた牧野伝説に偽りはないよ。
<関本四十四氏の略歴>
1949年5月1日生まれ。右投、両打。糸魚川商工から1967年ドラフト10位で巨人入り。4年目の71年に新人王獲得で話題に。74年にセ・リーグの最優秀防御率投手のタイトルを獲得する。76年に太平洋クラブ(現西武)に移籍、77年から78年まで大洋(現横浜)でプレー。
引退後は文化放送解説者、テレビ朝日のベンチレポーター。86年から91年まで巨人二軍投手コーチ。92年ラジオ日本解説者。2004 年から05年まで巨人二軍投手コーチ。06年からラジオ日本解説者。球界地獄耳で知られる情報通、歯に着せぬ評論が好評だ。