短大在学中に素人参加型番組にたびたび出演していた山田は、卒業してもなおフリーランスの芸人としてバラエティーに出演。その頃、『ひょうきん族』を立ち上げる予定だった横澤彪氏(故人)と食事を共にし、直接出演オファーを受けたという。しばらくフリーとして活動していたが、横澤プロデューサーの助言もあり、番組の中心として活躍していたビートたけしと同じ事務所(当時)の太田プロダクションに所属した。
「太田プロから提示されたギャラは月20万円。当時のOLの初任給が12万円ほどだったそうですから、大きな金額ですが、すでに山田はフリーの状態で20万円稼いでいたこともあり、一度は断りを入れたらしいです。しかし、すぐさま30万円に値上げしてきたらしく、MCの河本準一も『どんぶり勘定だ』と話していましたね」(芸能ライター)
その後も、山田の人気はうなぎのぼりになり、最高月収は1億円だったと告白。たけしについては「もっと稼いでいた」と言い、「1億5,000万円ほどもらっていたのでは?」と語った。そんな中、ひょうきん族メンバーでギャラの話をしていたところ、明石家さんまの月収がかなり低いことが発覚。彼のギャラを見たたけしも、「1日の?」と驚愕したという。当時、さんまが作ったネタを台本に取り入れていたことから、たけしの口利きでさんまに作家料が支払われるようになった。
「今回の仕事は独立した後の仕事なのですが、『じっくり』のギャラは聞いていないと言いつつ、『20万円くらい?』と質問をしていました。河本が『全員のギャラが飛びます!』と返すと、『そんなに安いの?』と驚いていましたね」(同上)
また、イベント出演は50万円からとも告白した山田。自身のコマーシャルのギャラも「2,000万円ほどだろう」と予想していたところを鑑みると、まだバブルの頃の金銭感覚から抜け出せていないようだ。