「永伍ちゃんと同じ配分は貰いたくないよ。帰りの汽車のなかでファンが押し寄せて、俺たちには目もくれない。サインを欲しがったり、話かけたり、俺なんかどこの馬の骨、邪魔だなんて思われていたのだからね」
同期の野寺英男の話だが、それだけ高原の人気は凄かった。ボクサーの高木永伍がリングネームに名前を借りるほどで、ファンの中には、生まれてきた男の子に永伍と命名した人もいたという。
とにかく練習熱心、肝臓がぼろぼろになったときには、ドクターストップも掛かったが「練習で死ぬるなら競輪選手として本望」と猛特訓を続け体を治してしまったという。
負けた時の高原は川崎の自宅に帰るとすぐに自転車を組んで練習に出かけた。雨が降って練習が出来ず映画を見にいっても、途中で空を見上げて雨の上がるのを待ち練習したという。
「素質がないから練習しかないんだよね。負けた時には畜生、もっと練習してやると思ったものだよね」と後年話していた。結婚して平塚に転居した時も、若手と一緒に練習していた。この高原との練習で平塚にも良い選手が生まれるようになった。
平成6年5月5日の引退式には、高原と闘った往時の名選手が顔を揃え、満場のファンは涙を流しながら引退を惜しんだ。
いつもはレースに声を掛け、時には罵声を浴びせるファンも、一様に高原の引退を惜しんだ。それは競輪ファンにとって、若いころの数々の思い出が頭の中で走馬燈のように巡っていたからだろう。
引退後は競輪学校の名誉教官、名輪会の幹事長を務めているが、一文を書かせたら信じられないほどの名文を書く。字もうまい。是非、自筆で競走生活のあれこれ、競輪学校教官のあれこれを書き残して貰いたいと、いつも思っている。
競走の時のガッツはいまでは見せない。常識人としてゆっくり話す姿は、鉄脚・高原のイメージとは違う。いつ会ってもニコニコして相手を差別しないやさしさは本当に魅力的だ。
カラオケ大好き人間でもあった。