デストロイヤーさんは1954年にデビュー。最初に作ったマスクは婦人用のパンツを細工したなど諸説ある。日本には1963年5月、日本プロレスに初来日。力道山のライバルとして死闘を演じ、視聴率が64%を記録するなど日本における当時のプロレスブームの一端を担う存在となった。同12月の力道山逝去後は、豊登、ジャイアント馬場、アントニオ猪木と名勝負を繰り広げ、力道山亡き後、不安視された日本のプロレス界を外国人のトップレスラーとして支え続けた。
馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、主戦場を全日本に移し、1973年から79年まで全日本の所属選手として、日本陣営として活躍。アブドーラ・ザ・ブッチャーとは血で血を洗う抗争に発展し、ミル・マスカラスらと覆面世界一決定十番勝負が話題になった。この頃、日本語を猛勉強しており、話すだけではなく、カタカナなら書けるレベルまで上達。『うわさのチャンネル』でもそんなデストロイヤーの茶目っ気あるキャラクターが日本のお茶の間に受けた。79年に全日本の所属を離れ帰国するも、年に1回ペースで来日し、全日本の若手の壁として、足4の字固めの洗礼を浴びせながら、会場では惜しみなくサイン会やマスク販売を行いファンと交流し続けた。息子のカート・ベイヤーも日本での生活が長かったことから、日本語に堪能で、1992年に全日本の練習生になりプロデビュー。93年に行われたデストロイヤーさんの引退試合では、馬場とのトリオで親子タッグが実現した。全日本で活躍したダニー・スパイビーはデストロイヤーさんの娘婿である。
親日家のデストロイヤーさんは、引退後も麻布十番祭りには毎年のように来日し、デストロイヤーさんの「アザブジューバーン!デストロイヤーイチバーン!」というギャグは麻布十番祭りの風物詩となっている。馬場の逝去後、1999年5月に東京ドームで行われたジャイアント馬場引退記念試合に馬場のパートナーとして“出場”し、ブルーノ・サンマルチノ、ジン・キニスキーと“対戦”したデストロイヤーさんは「シャチョウ、ホントーにオツカレサマデシタ」と日本語でメッセージを送っていた。最近では先月19日の『ジャイアント馬場没20年追善興行〜王者の魂〜』両国国技館大会で行われたブッチャーの引退セレモニーに「医師から長いフライトを止められている」としてビデオレター(デストロイヤーさんが書いた手紙がビジョンに映し出されアナウンサーが読んだ)を寄せていた。この時かなり体調が悪かったものと思われる。
カート・ベイヤーは「リハビリがうまく行けばまた日本に行けると頑張っていた。最後にもう一度日本に行きたがっていた」と晩年は再来日することを励みにリハビリを行っていたことをメディアの取材で話している。2017年には日本政府から日米両国の友好親善及び青少年交流に貢献してきた実績が評価され、外国人叙勲者として旭日双光賞を受章。プロレスラーとしてではなく、外国人のバラエティータレントの先駆けだったデストロイヤーさんは、最後まで日本を愛し続けていた。
ご冥福をお祈りいたします。
※文中一部敬称略
文 / どら増田
写真 / H.J.T.Production