このエピソードは前回で記した通りだが、メンツをつぶされた日本の警察ももちろん黙ってはいなかった。後日、これが“国際問題化”して、時の神奈川県令・中島信行と英国領事・ロバートソンの間で、文書による抗議を交わし合う一幕となった。
ちょうど1年前、神奈川県は政府の指示に従って、日本人の裸、浴衣、混浴、放尿などを禁ずる、今の軽犯罪法のようなものを施行したばかりだった。その条例が、競馬場内にも適用された結果の騒動だったともみられる。
文明開化の窓口・横浜でのこの競馬には明治新政府も関心を持っていたようで「日本レースクラブ五十年史」によると、1870(明治3)年には地ならし料として天皇御下賜金(ごかしきん)1000両を送り、翌年も観覧席や垣根の修繕費として1000ドルを下賜している。
だが、競馬上の経営は決して楽ではなく、日本政府に支払う馬場借地料の年額1500ドルを、しばらくは1200ドルにまけてもらっていた。その後も、政府とクラブの間で「まけろ」「まけない」の交渉が何年もの間続いている。
そんなせいもあってか、居留外国人相手に、生糸や茶の輸出を営む日本人貿易商らが、競馬開催に資金援助している。1874(明治7)年11月4日付の新聞には、彼らが洋銀(当時の貿易通貨)を25枚、15枚、10枚と、レース主催者に援助したことが報じられている。
この間、居留外国人仲間にも対立が生じ、2つのクラブが分立する騒ぎとなる。横浜レースクラブは当初から、プロ(馬券師)の入会を拒否していたが、これに対する不満が表面化したのだ。
※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬