ここに身を置いたことで、田中の事業家への道は一気に開けることになった。何と15歳で上京した折、住み込み書生として紹介された理研コンツェルン総帥の大河内正敏子爵と奇遇の再会を果たし、やがて理化学研究所関係の仕事を引き受けることで事業は一気に拡大していく。本郷の大河内邸を訪ねたが折から子爵は不在、女中に追い返されるように大雪の中をトボトボと引き揚げた日から、約2年が経っていた。
ある日、理研のエレベーターに、偶然乗り合わせた田中に大河内は言った。「君が新潟から来たあのときの人か。理研は今後、全国的に工場をつくる。新潟にもつくる。ヤル気はあるか。ただし、勉強を怠るな」と。
これを機に田中は理研関連の仕事を受注、早稲田大学の建築に関する専門講議録で勉強を重ねる一方、機械製図から測量、工事業者選定、工事監督など身を粉にして働き、一級建築士の資格も手に入れていくことになる。しかし、この事務所を経営していた中村が応召、軍隊に引っ張られたことをきっかけとして田中は事務所を辞め、これを機に独立、『共栄建築事務所』の看板を掲げた。昭和12年春、19歳であった。この頃、無精ひげにちょっと手に入れてみると妙に似合ったことから、これ以後しばし“チョビひげ”をたくわえるようになっている。事業の方は理研の工場建設などを中心に、順風満帆一途であった。
しかし、世は常に好事魔多し、田中にも応召が待ち構えていた。昭和13年春、入隊検査で甲種合格、16年10月に除隊となるまで在満州勤務の盛岡騎兵第三旅団第二十四連隊第一中隊への所属を余儀なくされた。除隊は北満州でクルップス性肺炎に胸膜炎を併発、2週間の危篤状態が続き内地送還となったものだった。
ちなみに、当時の軍隊では兵隊が病気して死去するまで、親元に3回の電報を打った。第1報は危篤状態のときで「ヤマイオモシ」と軽めに伝えられ、死去寸前で初めて「キトク」、死去して「シス」の2報、3報と続く。2報になると、1階級特進が発令されている。
しかし、田中の病状は内地送還後、奇跡的に回復した。田中は後日、こうした自らの“強運”ぶりを、いささか神妙に述懐している。
「先に逝ったすぐ下の妹に続き、応召中にまたもう一人の妹が病死した。私が助かったのも、この妹が私の宿業を背負っていってくれたに違いない。大河内先生との奇遇の出会いも、二度とできない貴重な体験とともに広範囲な分野で勉強させていただき、このとき学んだことが後の私の知識の全部だとも思っている。人間、中途半端な努力では何もできないことも知った。私は運だけでここまで来たような気がする」と。「人生は邂逅である」という言葉がある。邂逅とは、人との出会いである。この出会いをどう生かすかで人脈を得たり、運のよさと向き合えるかが決まる。
田中の人生を振り返ると、数々の挫折を何とかなるさという、持ち前の楽天主義も手伝ってこれを乗り越えてきたことが分かる。何事にも成功者を見ると、この楽天主義者が多い。楽天主義とは苦境に立ってなお屈託なく、今日のことは1日にて忘れ、明日があるさ、くよくよしても始まらないとする。他人を妬まず、陥れず、常に地に足を付け、志捨てず、人の見ていないところで努力は人の2倍、3倍、どっちみち人は死ぬのが定めという透徹した精神を指すのである。
除隊からいったんは郷里新潟へ帰ったもののすぐに上京、今度は『田中建築事務所』を開設、理研の信用も一段と高まる中、大工事の設計など事業規模拡大で業績はさらにうなぎ上り、昭和17年にこれを組織変更して現在のJR飯田橋駅前に『田中土建工業株式会社』を設立する。翌18年には、すでに年間施工で全国50位以内に入る実績をつくり上げている。
田中自身の収入も田中建築事務所当時にして並みの勤め人のそれの10倍は越えており、若くして大金を手にすれば次はオンナ遊びも大方の常、田中また人後に落ちなかった。時にすでに結婚、長男・正法に次いで後に政界入りし外務大臣となる長女・真紀子も誕生したばかりであった。
飯田橋駅を線路ひとつ隔てれば花柳界の「神楽坂」、田中の豪快かつモテモテの“オンナの光景”が始まるのである。
(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。