しかし、好事魔多し。政調会長就任から約半年後の昭和37(1962)年2月、折から来日中のロバート・ケネディ米司法長官と、田中ほか12人の自民党議員が、今後の沖縄返還問題について懇談した。そのとき田中がケネディに向かってしゃべった話の中身が、“オフレコ懇談会”であったにもかかわらず、どうしたものか翌日の新聞にスッパ抜かれたのだ。いずれにせよ、参加していた議員の誰かが漏らしたことになるが、中身が大問題だった。
田中いわくのそれは「現在、日本国内では沖縄返還の要望が強いが、米国としては日本の憲法に核兵器禁止などの制約があることから対中・対ソ(現ロシア)との軍事的見地を鑑み、返還できないものだと考える。したがって沖縄返還の一つの方法は、米国が返還の前提条件として、日本に対して早急に憲法を改正し、再軍備を進めるよう提起したらどうか」というものだった。
さぁ、大変である。これが真意を伝えているなら、大失言となる。新聞報道が出た直後の記者会見で、田中は「私の真意をよく伝えておらん。もう、いらんことは一切言いませんよ」と弁明、その後はどんな質問にも口を貝のように閉じてしまった。しかし、通常国会のさなかでもあって、社会党が「待ってました」とばかりに、衆院予算委員会で「問題発言」として取り上げ、テンヤワンヤの騒ぎとなったのだった。
その予算委員会で、田中は池田首相に「私が、直接、釈明の答弁に立つ」と言ったが、池田は「いや、君が出ればブチ壊しになる」と抑えて自ら答弁に立った。
そして「田中政調会長の真意は、沖縄、そして小笠原の返還を前提条件に、仮に米国から憲法改正、再軍備強化などの要求を出された場合、それこそ大変なことになるというところにある」と、苦しい“助け舟”を出したのであった。
一方の田中はと言うと、与野党がそろった予算委員会の理事会に出席、改めて「発言は遺憾であった」と陳謝、辛くもケリをつけることに成功した。
しかし、ヘタをすれば内閣の命取りにもなりかねなかった発言だけに、首相になる前には「貧乏人は麦を食え」などの放言、失言で知られていた池田も、さすがにこうボヤいたのだった。「“失言の池田”が、人の放言の尻拭いをするようになったのか」と。
これを耳にした田中は、政調会長更迭にビクついたのか、さすがに意気消沈、「ひげでもそらなきゃならんかなぁ」と口にしたのだった。当時、「チョビひげ」は田中の代名詞でもあったのである。
もっとも、このひげの一件を、当時、まだ米国留学中だった娘の真紀子(のちに外相)が現地の報道で知り、「ヤジ(オヤジの意)ヒゲソルナ」の“ウナ電”(至急電報)を打ってきたことで、田中もそるのを思いとどまったというエピソードがある。
★「田中の大蔵だけはダメだ」
田中のそうした政調会長就任から1年後の昭和37年7月、池田は党役員人事とともに第2次内閣を改造した。
このとき、池田は閣僚人事の骨格を、自らの大蔵省時代の後輩で信頼してやまぬ前尾繁三郎幹事長と、大平正芳官房長官に、「任せる」と“丸投げ”したのだった。学者肌の前尾は入閣への野心なしで幹事長留任、赤城宗徳総務会長も留任となった。こうなれば、同じ党三役の田中政調会長も留任かと思われたが、底流では“異変”が起きていた。
骨格づくりを任されたはずの前尾は、政界のドロドロした駆け引きは好まずで、「大平君、任せるから君がやってくれ」であった。当の大平はこれをいいことに、「これからの自民党の政治は、自分たちが責任を持ってやっていくのだ」の自負のもと、仲のよかった田中角栄と呼吸を合わせ、大平自らは官房長官から外務大臣に横すべり、田中を大蔵大臣とした組閣名簿をつくって池田に差し出した。
しかし、この組閣名簿を見た池田は、まず「田中大蔵大臣」を見て目をむいた。それまでの蔵相ポストは、大蔵省出身者が就くことが恒常化しており、ましてや田中は東大法学部卒業でもない尋常高等小学校卒であり、年齢もかつて例のなかった44歳という若さである。これでは、内閣が持たないだろうとの危惧であった。池田は大平に向かって、こう言った。
「田中が、なぜ大蔵なのか。放言はするし、危なっかしい。田中の大蔵だけはダメだ。代えろ」
しかし、大平は引き下がらなかった。その後、これをきっかけに大平と田中は「盟友」関係の絆を強めていくことになるのである。
(本文中敬称略/この項つづく)
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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。