戸口は1968年に日本プロレスで、柴田勝久(勝頼の父)戦でデビュー。日本プロレス崩壊直前の1972年の年末に、アメリカマットを中心に世界中を渡り歩き、キム・イルこと大木金太郎さんとともに、キム・ドクのリングネームで、1978年10月に全日本マットに登場すると、同月28日に蔵前国技館でジャイアント馬場さん、鶴田さんのインターナショナルタッグ王座に挑戦し、反則勝ちながら王座を獲得。一方、シングルでは1977年10月から鶴田さんと九度にわたる一騎打ちを行っており、白星を手にすることはなかったが、フルタイム戦が5試合あり、中でもUNヘビー級王座に挑戦した1978年9.13愛知・愛知県体育館大会での一戦は、60分に加えて5分間の延長戦を闘い抜いても決着はつかず、今でも戸口の名勝負として語り継がれている。1981年にIWGP構想に賛同する形で、新日本プロレスに移籍。実質、引き抜きだったが、新日本マットでは、キラー・カーンとの大型タッグで外国人サイドの日本人として、アントニオ猪木率いる新日本正規軍は手を焼いた。
新日本に移籍してから、アメリカではWWF(現WWE)で活躍。タイガー・チャン・リーのリングネームで1988年まで不定期参戦していた。新日本マットでは長州力のクーデターにより、新日本正規軍と長州率いる維新軍の日本人抗争がメインとなり、戸口はカーンと同じく維新軍のメンバーとして合流。1984年に長州ら維新軍のメンバーを中心に新日本を退団。ジャパンプロレスを旗揚げし、全日本を主戦場にしていたが、ジャイアント馬場さんが戸口の全日本復帰を許さなかったとされており、戸口は新日本に留まり、正規軍の一員として活動していたこともある。
1990年代からは新日本でピラニア軍団のメンバーとして活動した他、インディー団体や、武藤敬司がプロデュースするプロレスリング・マスターズに参戦していた。
戸口は「最後、自分ができる技を出して、お客さんが満足してくれる試合ができれば一番いいんですけどね。まあ、鶴田がいてくれれば歴史に残るような最高の試合になるんだろうけど、鶴田の追善興行だからね、その場にいないからこそ鶴田に捧げる試合にしたい」とコメント。新日本時代に関わりのあった藤波と谷津とのトリオで、全日本出身の3人とラストマッチを行えるのは、両団体を股にかけた戸口ならではのカードかもしれない。
(どら増田)