一見するとまったく別物のように思える出来事だが、実はこの2人が起こした騒動には、大きく分けて3つの共通点が見られる。
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1つ目は、2人の“エンターテインメント気質”だ。
河村市長は、今回の問題行動の動機を「盛り上げるためだった」と説明している。そんな河村市長は、もともと「あけっぴろげ」で「目立ちたがり屋」といった印象を周りに与えていた。
DaiGoはこれまでにもYouTube配信の中で世間のタブーを覆すような発言で注目を集めることがあった。持論を強調するあまり極端な表現を選ぶ傾向があり、自分の意見と対立する人を挑発することも多かったため、炎上商法の一環と捉える見方もあるが、果たしてどこからどこまでが計算の上でのことかは本人にしか分からない。ただ、もとはと言えば「メンタリスト」という名のエンターテイナーであることは確かだ。
2つ目は、“差別に対する世間との感覚のズレ”。
河村市長は、これまでにも女性に関しステレオタイプ的な発言をする場面が多く見られていた。今回の問題行動の後に受けたというハラスメント講習では、「ハラスメントはいじわるをいうことを中心的に考えてきた」と、ハラスメントの定義について誤解があったことに気づいたと話している。こうしたハラスメントについての感覚のズレは、河村市長だけでなく、ネットネイティブ以前の世代によく見られ、似たような問題が浮上するたびに、世代によって異なるハラスメントに対する意識の違いが浮き彫りになる。一方で、地位や年齢の高さが壁となって周囲が本人に注意しづらいケースも多く、本人はいざ問題となってから初めて認識することも少なくない。
DaiGoは問題の動画以来、LGBTQの集まりに参加する人や妊娠できない女性に対する過去の発言が掘り返されており、そもそも偏見が強い傾向があったことが分かる。DaiGoの配信する動画は対話よりも独り語りがメインであり、有料会員サロンに参加するような熱心なファン以外も訪れるコメント欄は基本的に閉鎖か承認制としている。このようにファンに持ち上げられるばかりの状況の中では、自分本位で偏った思想が強くなっていくのも無理はないだろう。
3つ目の共通点は、“謝罪が伝わらなかったこと”。
河村市長の謝罪会見に対して、ネットでは「謝罪文を棒読みしている」「深刻さが感じられない」「本当に悪いと思っていない」など厳しい声が多く寄せられた。その後に公開された市職員宛ての直筆の謝罪文には雑な印象を受けた人が多く、「人を小馬鹿にしている」と捉える声もあり、鎮火させるどころか、再び炎上させる結果となってしまった。
DaiGoの場合、最初の謝罪動画では「謝罪になっていない」との声が集まり批判を浴びた。2回目での謝罪では、雰囲気をガラッと変え、スーツで登場し、涙ながらの謝罪を行ったものの、過去にアップしていた「効果的な謝罪方法」などについて説明した動画が掘り返されたことから、それと重ねて「計算された謝罪動画」「嘘泣き」と捉えられるなど、思うような謝罪の効果を得ることができなかった。その後も、差別的な発言を含む過去動画や「謝罪しろという人たちは頭が悪い」「馬鹿だと思えばいい」などとレクチャーする動画が掘り返されるなど、どこまでも収拾がつかないでいる。
こうした共通点は、問題を引き起こした原因に他ならない。しかし、エンターテインメント気質は時に人を楽しませ、日常に刺激や笑顔を与えてくれるという良いところもある。世間とのズレは多かれ少なかれ誰にでもあるもので、心から反省したのかどうかは、実際のところ本人次第である。
いずれにせよ、人格は生涯固定されたものではなく、経験や学習によって変容していくもの。本当に内省した証は、これからの行動や言動に表れるはずである。
文:心理カウンセラー 吉田明日香