いかりやさんとの確執については、志村さん自身が2016年に出演した『ダウンタウンなう』(フジテレビ系)の人気コーナー「本音でハシゴ酒」で告白している。この様子は、4月3日放送の同番組においても追悼特集が組まれている。
志村さんは、ギャラの配分を巡っていかりやさんに不満を抱いていたようだ。1974年当時で月50万円と高額なギャラをもらっていたものの、ドリフは1回の営業で1500万を稼ぐ大スターだった。そのため、全然金をもらっていないと不満を抱くようになったようだ。当時のドリフのギャラ配分は、いかりやさんが6、残りの4人のメンバーが1割ずつであったため、志村さん以外のメンバーも不満を抱いていたようだ。
さらに、ドリフの名物番組と言えば、1969年から1985年まで断続的に続いた土曜夜の生放送番組『8時だョ!全員集合』(TBS系)である。この番組は、1981年にスタートした裏番組である『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)に視聴率で追い上げられて行く。「ひょうきん族」はご存知の通り、ビートたけし、明石家さんま、島田紳助さんら、後のテレビを席巻して行く芸人たちが集ったスター番組であった。芸人の「世代交代」が起こるのは必然であったと言えるだろう。
「ひょうきん族」の追い上げが強まると、それまで企画会議の中心にいたいかりやさんが「疲れた」「休みたい」と口にするようになる。これは、いかりやさんにとっては口癖のようなものであり、改めて頼られることを望んでいた。ただ、周りのスタッフやメンバーは、人気のあった加藤茶と志村さんを押し出した企画を作るようになり、いかりやさんを失望させたとも言われている。
かつてギャラに対し不満を抱いた最年少メンバーが、図らずも人気、実力ともに、リーダーであったいかりやさんを越えてしまう「下剋上」が起きた瞬間である。こうしたお笑い史の流れを、視聴者の立場から感じ取っていた者も多いのではないだろうか。それだけ志村さんが偉大なコメディアンであった証明でもあると言えるだろう。