リーダーの大野が、嵐としての活動を「休みたい」と漏らしたのは17年6月中旬ごろ。以降、何度も話し合いを重ね、20年いっぱいでの休止に踏み切った。
そもそも大野はジャニーズJr.だった10代のころから、ダンスは好きだが、アイドルにはなりたくなかった。16歳から18歳にかけて出演したミュージカル「ジャニーズ・ファンタジー KYO TO KYO」が終わり、劇場があった京都から帰京したときは燃え尽き症候群となり、退所の決意を固めている。故・ジャニー喜多川氏にその旨を、何度も伝えている。しかし、ジャニー氏はあの手この手で大野をつなぎとめる策を講じた。
95年、フジテレビ系「バレーボールワールドカップ95」のイメージキャラクターとしてV6をデビューさせることが決まったとき、大野に「YOU、バレーボールできる?」と聞いている。未経験だった上、「できます」と答えるとバレーボール関連の番組を“やらされる”と思い、「できません」と答えた。これにより、V6最後の6人目が岡田准一に決定したといわれている。
99年には、「レコーディングするから来て」と呼び出し。のちに嵐のデビュー曲となる「A・RA・SHI」の仮の歌詞を渡した。そこにはしっかり、“大野パート”と書かれていた。大野は、「いやっ、ジャニーさん。俺、ダンスをしたくて(事務所に)入ったけど、もう極まったから辞めたいんだけど……」と、再び気持ちを伝えている。
「嵐が始動した後も、退所したい願望は収まらず。櫻井翔さんと一緒に歩いていた夜の恵比寿で、驚きの言葉を口にしています。飲み屋さんがたくさん入ったビルをジーッと見つめていたので、櫻井さんが『どうしたの?』と聞くと、『ホストになろうと思ってさ』とつぶやいたのです(笑)。あながち冗談ではない様子で、事務所関係者にも伝えていたといいます。当然、『それだけはやめてくれ!』と懇願されたそうですが……」(アイドル雑誌の編集者)
ジャニー氏がつなぎとめようと躍起になった大野という天才児。群を抜いた正統派アイドルではないが、言動も自由奔放さもジャニー氏にとっては大きな魅力だったのか。嵐の活動休止まであと8カ月。芸能活動を休業する大野の一挙手一投足を目に焼き付けたい。
(伊藤由華)