女子競輪は昭和23年10月の小倉競輪場で競輪開催がはじまった時から行なわれている。もっともこのときは選手募集もしていなかったから、2人がエキシビションとして走っただけ、という。
女子選手の登録は1番の小橋トシ子(長崎)から1016番の矢野美千代(熊本)まで、なんと千名以上が選手になった。昭和24年10月の川崎第2回全国争覇競輪(今の日本選手権競輪)では女子種目もあって16歳の高木ミナエ(岐阜)が後続をちぎって優勝、翌年も圧勝した記録が残っている。
力の差が大きく次第に車券の配当が少なくなってからというものは、女子レースの開催を拒否する施行者も多く出てきて、川崎、京王閣や立川、取手、弥彦などで当時のB級戦のかわりに開催されていた。
昭和39年といえば、東京オリンピックが行われた年だ。男子と女子の宿舎の環境は改善されていなかった。印象に残っているのは取手での話。女子の更衣室は、控え室に毛布でしきりをつけていただけだった。話によると旧陸軍の馬小屋を改修したものが控え室だったという。いまの選手宿舎や控え室は選手会の強力な要望もあり改善されている。
女子レースの復活はいままで何回も語られてきたが、まず選手育成問題が難関となっていた。
高木ミナエ、黒田智子(福岡)渋谷小夜子(神奈川)田中和子(奈良)畑田美千代(山口)らのスター選手たちは、昭和39年10月以降、どうしているのだろうか。男子選手と結婚して、家庭を築いた選手も多くいると聞いている。