ミステル・カカオがプロレスに関心を持つようになったのは、祖父の影響が大きい。祖父は大のプロレス好きで、欠かさずテレビ中継を見ていたそうだ。当時はまだテレビが白黒の時代。2歳だったカカオは「フレッド・ブラッシー、ボボ・ブラジルらの試合が記憶に残っている」という。
ただし、興味の対象はレスラーではなかった。カカオが魅せられたのはビルドアップされた肉体、覆面やコスチュームで、「特にお気に入りはザ・デストロイヤーのマスク」であった。小学生になると、ブルース・リーやミル・マスカラスの肉体を見るにつけ「どうしたら、あんな体になるのか」と体を鍛え始める。
プロレスにのめり込み出したのは、スタン・ハンセンの全日本プロレス乱入(1981年12月)を見てからで「ブロディ、スヌーカーと一緒に現れた時は鳥肌が立った」という。その後は地元の京都はもちろん、大阪で試合があれば、会場に足しげく通うようになる。
転機は大学受験のさなかに訪れた。全日本が練習生を募集している記事を目にすると、迷うことなく履歴書を送付。カカオは「プロレスラーは選らばれた人間たちの世界。まず受からないと思っていた」が、大学合格後に全日本から連絡があり、ジャイアント馬場との面談が実現。「すぐ道場に入るように言われたんですが、あまりに急な展開だったので、全日本が巡業で大阪に来た時に合流しました」。だが、両親はプロレス入りに大反対で、入門時に必要とされた親の承諾書は自分で作製し、大学に籍を置いたまま全日本の一員となった。カカオが入門した時(1984年)の全日本の若手メンバーは、先輩には川田利明がおり、数カ月後に小川良成が入門。新日本の闘魂三銃士とは入門時期が重なっている。
しかし、承諾書の一件で両親はよりかたくなになりデビューの日時が決まっていたものの、京都に戻らざるをえない状況に。「会社には状況を話したんですが、道場は夜逃げのような形で出てしまった」。そして大学に通い始めると、「体をつくって、プロレスに戻れれば」と思い、ボディービルに熱中。数々のタイトルを獲得し、ミスター日本に出場を果たした。大学卒業後は京都でインストラクターをこなしながら、ボディービルダーの衣類やサプリメントを取り扱うお店にも勤め出した。
マスクを制作するキッカケは、その直後に訪れた。知人から初代タイガーマスクの覆面を手掛ける東京のマスク職人を紹介され、勤め先で初代タイガーのマスク販売を行うようになる。そして、その人のすすめでカカオもマスク作りを始めることになるわけだが、それまで縫い物の経験はなく、東京の工房に出向いて見よう見まねで作り方を修得。1992年にスペル・デルフィンから依頼を受けて制作したマスク&コスチュームが初仕事となった。
その後、カカオはさまざまな選手のマスクとコスチュームを手掛ける一方で、京都でプロモーター業も始め、みちのくプロレスやIWAジャパンの興行を開催。1997年に「ルチャリブレを直輸入したい」とCMLLジャパンを旗揚げすると、2000年7月に同リングで念願のプロレスデビューを果たした。
当時34歳。遅咲きのデビューである。本人は決断を下すのに相当悩んだという。
「歳が歳なだけに、プロレスをなめていると思われるんじゃないかという不安があって躊躇(ちゅうちょ)しました。でも、ある人の『今しかないよ』という言葉が背中を押してくれた」
そして2006年5月には東京都新宿区に覆面屋工房をオープン。現在は覆面マニアという自主興行を開きながら、他団体にも参戦している。「レスラーとしてはまだまだ。体が動く限りリングに上がり続けたいです」というカカオは、今後もレスラーとマスク職人を両立させていくつもりだ。
◎覆面屋工房
覆面屋工房は、プロレスラー向けのコスチューム&マスクを手掛ける一方で、一般の人からの発注も受け付けており、オーダーメイドの覆面の制作も行っている。「最近はテレビ、CM、映画からオファーが多いですね。あとはイベント用とプレゼント用の注文もあります。プレゼント用の場合は、記念日に贈るので、マスクに日付を入れるデザインの注文が多いですね」(カカオ)。なお、店内にはマスクはもちろん、さまざまなオリジナル・グッズも発売されている。