主人の芳松は昔気質(むかしかたぎ)の職人肌の人だった。口は悪いが竹を割ったような性格で情も厚い、下町育ちの生粋(きっすい)の江戸っ子だ。徳次は後年、芳松によって技術への眼を開けてもらったと同時に、人の世の情けを授かったと語っている。
井上せいが去ると、おかみさんは着物と“坂田”と両衿(えり)に染め抜いてある印半纏(しるしばんてん)を徳次に渡した。着替えると仕事場に連れて行き、兄弟子たちに紹介してくれた。仕事場は10畳ほどの板敷だった。
坂田は江戸時代から続く錺(かざり)屋で、芳松は当時34歳、腕のいい職人だった。ただし徳次が奉公に入った頃には昔ながらの仕事は減っており、当時としてはハイカラな人の持物だった洋傘の金属部分を製作するのが主な仕事だった。
坂田の家での徳次の一日は、まだ暗いうちに起き、眠い目をこすりながら家の内外の拭き掃除をすることから始まる。やがて職人たちが起きてきて、朝食の前に一作業する。朝食は7時頃で、まず職人、そして兄弟子たちが食べ終わってから徳次の食べる番が回ってくる。
その頃には鍋の味噌汁は実も何もない底だまり、ご飯はお焦(こ)げばかりになっていた。それでも3度の食事を遠慮せずに食べられる。熊八の家にいる時よりずっとましだった。
坂田の店には当時、職人が5、6人いた。徳次のように奉公中の者も合わせると20名近い大所帯だった。職人、兄弟子それぞれがあれこれと用事を言い付ける。おかみさんの台所の仕事も言い付かるので、一番の新入りである徳次は一日中、目が回るほど忙しかった。
休憩時間などないので、食事の時にやっと少し体を休めるだけだった。