永遠に…。
首相の失跡という異常事態であったが、政府や政権与党の動きは素早かった。首相の失踪を受け、早くも月曜から後継の人選に着手したほか、現場のシェビオット海岸は潮流も早く、またサメが出没することなどから、首相は溺死した可能性が極めて高いとされ、捜索は短期間で打ち切られたのである。そのため、あらかじめ首相の失跡は予定されていたとの陰謀論が唱えられた。そのひとつは、ホルト首相が溺死を装ってオーストラリア海軍の潜水艦と合流し、メディアの監視が届かない場所で愛人と第二の人生を歩んでいるというもの。
もうひとつは、オーストラリアのベトナム派兵などに怒った中国が潜水艦で拉致したというもので、これについてはホルト首相が中国のスパイだったとする本が1982年に出るなど、微妙に変化しつつもかなりの期間にわたって流布されていた。とは言え、事件が発生した67年にオーストラリア海軍へ就役したばかりの最新鋭潜水艦はイギリスで訓練中だったし、他の旧式潜水艦にも不審な行動記録は見当たらないとされる。また、当時の中国は文化大革命のただ中で人民解放軍は混乱状態にあったばかりか、当時の中国海軍は赤道を超えて南下したことがなく、その能力もなかったとされる。
しかし、ホルト首相の失跡を受けた政府や政権与党の対応に関しては、それでもなお性急に過ぎるとの見方があり、それが陰謀論の温床にもなっている。たしかに、ホルト首相は自身のスキャンダルなどから与党内でも指導力に疑問を持つ声が上がり始めており、たとえ事故や失踪を仕組まなかったとしても、政治的な追い落とし工作が存在していた可能性はある。そして、失踪という奇禍に乗じた反ホルト派の政治工作が早期の後継選出につながったというのは、いかにもありそうな話である。
ホルト首相失跡事件の際に政権与党内、あるいは議会内で何が話し合われ、どのようにして決まったのかは、非常に興味深いテーマであろう。だが、それはまた別の、政治ミステリーである。
(了)