日中戦争の際は応召先の満州で、死線をさ迷う肺炎をわずらって内地送還、その後、奇跡的な病状回復を果たして政界への足がかりを得たことなど、人との邂逅(出会い)によって、目指す人生のトビラが次々と開いていったことを指している。
その政界入りでも、当時は東大法学部卒の官僚出身者全盛の時代であった。尋常高等小学校卒の田中には「出番」などなかったはずだったが、人格、識見に優れた外交官で、首相を辞めたばかりの幣原喜重郎に、1年生代議士ながらかわいがられた。ここで「内政」ばかりに気を取られてきた田中は、それまで乏しかった「外交」の重要性に目を開くことができたのである。
次いで、保守政治の「本流」であった吉田茂に認められて、「吉田学校」に“入校”を許された。ここでも、圧倒的多数の官僚出身者が幅を利かす中、異例の吉田への接近が可能となった。この「吉田学校」にもぐり込めたことで、田中にはさらに次のトビラを開く機会を得た。「吉田学校」の“優等生”として吉田に高く買われ、大蔵省事務次官退官後、衆院議員となり、蔵相や通産相などを歴任した池田勇人との出会いが待っていたのである。
昭和35(1960)年7月、その池田は、前任の岸信介が「日米新安保条約」の成立を機に内閣を総辞職したあと、「寛容と忍耐」の姿勢と「月給2倍論」を掲げて第1次池田内閣を発足させた。その1年後の第2次改造内閣では、田中に自民党の役員三役の一つ、国家予算を党側から眺む政調会長ポストを任せている。
それまでの田中は、戦後初の30代で岸内閣の郵政大臣に抜擢され、その後は党の副幹事長を務めた。郵政大臣では、テレビ時代を迎えるにあたっての最大の政策課題、至難のワザでもあった大量のテレビ局予備免許申請に大なたを振るって整理、落着させた。また、副幹事長としては日米新安保条約の成立に八面六臂の活躍が目を引いた。しかし、池田が政調会長に抜擢した理由は、こうした「腕力」だけではなかった。
田中は政界に出て間もない昭和25年から28年のたった4年あまりの間に、多くの「議員立法」を成立させており、その政治的能力の高さ、発想、馬力を買ったのだった。田中は「道路三法」をはじめ、「国土総合開発法」「公営住宅法」「河川法改正法」「電源開発促進法」等々、戦後復興に不可欠な法律を次から次へと成立させ、その議員立法の数は生涯じつに33本にも達したのだった。
小泉純一郎元首相の秘書を長く務めた飯島勲(現・内閣参与)などは、「この国の礎は田中角栄がすべてつくった」とまで公言しているくらいである。
ちなみに「議員立法」は、政府すなわち官僚が立案して国会に提出する「内閣法」と異なり、議員自らが法律を企画、立案、政党あるいは各省庁に根回しして草案をつくり上げ、そのうえで国会答弁も一人でやらねば成立しないという、政治家としてのあらゆる能力を備えていなければつくれない法律である。今日でも、何十年議員生活をやっていても、一つの議員立法さえ成立させることなく政界を去っていく者は少なくないのである。
かくて、田中の能力を買い政調会長のポストに就けた池田だったが、なるほど田中はその期待に応えてみせた。
★「アレはただ者じゃない」
当時、政府と自民党にとっての懸案に、最大の「圧力団体」だった日本医師会との間で起きた、医療費の診療報酬をめぐっての綱引きがあった。一歩も引かぬ医師会に対し、それまでの厚生大臣、自民党の幹事長、政調会長らは、なんら解決の糸口を見いだせないまま引き下がっていた。
その最大のハードルは、「大ボス」「ケンカ太郎」の名をほしいままにし、医師会内外に絶対的な影響力を保持していた武見太郎会長(現・参院議員の武見敬三の父)であった。
政調会長就任から1週間目、早や田中は持ち前の行動力を発揮し、案を持って医師会館に“鎮座”する武見会長を訪れ、談判に臨んだのだった。しかし、医師会側は「そんな案では乗れぬ」と“保険医総辞退”という切り札までチラつかせるといった具合で、まったくラチがあかなかった。
しばし、両者の間でのやりとりは膠着状態が続いたが、「大ボス」として君臨するだけに武見も駆け引きの潮時を見極めるのは敏であり、田中の出した収拾案を基本的にのむことで、ようやく保険医総辞退という最悪の事態は回避できたのだった。
当時のこの政府と自民党vs日本医師会の“激闘”を取材した政治部記者の、こんな証言が残っている。
「当初、自民党の実力者たちは、田中のことを『軽量政調会長』と陰口を叩いていた。ところが、誰がやってもダメだった医療費の診療報酬問題で、田中はあの武見会長と渡り合い、見事に落着させた。時の自民党副総裁だった大野伴睦などは、『アレはただ者じゃないかも知れん』とまで言っていた。池田首相はと言うと、田中を政調会長とした人事がズバリだったことで、ご機嫌そのものだった」
ところが、いささか調子に乗りすぎたのか田中は、「沖縄返還」問題に関して大失言、今度は池田が頭を抱える番になったのである。
(本文中敬称略/この項つづく)
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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。