そのことを後で知って筆者は大いに憤慨したが、仲元氏はゴタゴタが起きて嫌気がさしている地主の気を鎮めるのが先決と考えていた。しかし、以後、会之田城趾の発掘は一切行われていない。
一方の吉田氏は、それからが大車輪だった。まず同じ結城伝説の舞台で晴朝が創建した結城市小田林の金光寺、そして晴朝のもう一つの隠居所跡と伝えられる小山市の中久喜城趾を掘っている。金光寺は住職が協力的だったので問題ないが、中久喜城趾は史跡に指定されているから、普通は許可が下りない。全体がまだ私有地になっているのをいいことに、地主に金を払って掘ったのだろう。
その後は徳川の埋蔵金にシフトし、一時、山梨県増穂町で大掛かりな発掘をやっていた。それが平成3、4年ごろのことで、筆者は現場を見学に行ったことがある。本人に会ったら、ここは何もないからやめた方がいいと伝えるつもりだったが、相変わらず現場は人任せで不在だった。
とにかく資金があるものだから、あらゆる有名伝説地の、それも過去に誰かが掘ったところを機械で大掛かりに掘るというのが、吉田氏の流儀だった。つまり、過去の人たちは掘り方が足りなかったから見つからなかった。皆あとひと掘りのところで失敗している、という考えだ。
しかし、過去の探索者の多くが掘り過ぎるほど掘っている。実際に見つかった埋蔵金で最も深かったのは、日本最大、時価8億円の『鹿嶋清兵衛の埋蔵金』で1.5メートル。大抵のものは50センチ内外で出ている。
埋蔵の目的を考えればそんなものだ。どんなに大掛かりにやったとしても、秘密を守るために工事は少人数・短期間が原則だから、さほど深く埋めるはずがない。それなのに、吉田氏はより深く、より広く掘ろうとした。
案の定、やがて資金は底をつき、最悪の結末を迎えることになる。
筆者が吉田氏と最後に会ったのは平成12年ごろ。季節は夏だった。何かいい情報を聞き出そうと、面会を求めて我が家の近くまでやって来たのだ。
指定した喫茶店に行くと、大きなスイカを一つ手渡された。土産はほかにもあった。大阪城本丸地下の探査データとその報告書だ。金属埋蔵物が存在する位置と深度の特定に成功したといい、表書きには、昭和63年に大阪市当局の許可を得て調べたと書かれていた。
目的は「学術調査」となっていたから、当局を言いくるめて探査をしたのは事実だろう。だが、データの信ぴょう性はともかく、そんなものを見せられてもうれしくはない。報告書は今も一応保存はしているが…。
そのときどんな話をしたのかよく覚えていないが、吉田氏がその後、群馬方面へ通い出したことはつかんでいた。現地の仲間から知らせがあったからだ。
そしてまもなく、人づてに悲報が届いた。同県昭和村の片品川河畔にある丸山という小山の調査中、高さ数メートルの岩の上から滑落して意識不明となり、数カ月後に死亡したというのだった。
丸山は沼田市在住の埋蔵金研究家・高橋喜久雄氏が、徳川の御用金の埋蔵地の一つと割り出したところで、筆者も何度か訪れている。怪しい箇所があるが、なかなか地主の許可が出ないので、ずっと手つかずのままだ。そこを掘ろうとしたのだろうか。
その後、複数の人物から吉田氏の晩年の様子が伝えられたが、最初の4億3千万円はとっくに使い果たし、揚げ句に数千万円の借金まで背負っていたそうである。金にまかせて大規模に掘りさえすればお宝が見つかる、大金をつぎ込んでも、それが何十倍何百倍になって戻ってくるという資本主義の論理を、この世界に持ち込んだのが、そもそも間違いだったのだ。
本来、トレジャーハンティングというのは、ロマンに満ちた行為のはずだが、吉田氏のようになってしまえばロマンのかけらもなくなる。過去にも似たような運命をたどった人物がいるので、筆者はそうはなりたくないと思い、“正しい”トレジャーハンティングのあり方を模索してきたが、吉田錦吾氏は反面教師として、多くのことを学ばせてくれた。(完)
トレジャーハンター・八重野充弘
(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。