戦艦武蔵は姉妹艦の大和と並んで世界最強をうたわれ、日本海軍の誇りともされていたが、太平洋戦争中のシブヤン海海戦において米軍機の集中攻撃を受けて撃沈された。そして、伝えられていた武蔵の沈没地点は、猪口艦長の遺書を託された副長の加藤大佐が退艦時に記載し、戦闘詳報に採用されている地点で、もうひとつは退艦した乗員を救助、収容した駆逐艦清霜の記録した地点のふたつである。まず、戦闘詳報に記載されている地点は陸地に近いが、戦中から戦後を通じて船体は確認されていない。また、清霜の記録した位置はより南で、沿岸や水上からの捜索は困難だったが、戦後の水中探査でも武蔵は発見されなかった。
米軍機の激しい攻撃を受けた武蔵は、艦橋が大損傷を受けた際に戦闘記録や航跡図、信号記録などを失ったため、生存者の聞き取りなどから戦闘詳報を作成している。しかし、生き残った将兵の多くは地上戦に巻き込まれるなどして戦死しており、戦闘が続く中でまとめられた記録の信頼性はさほど高くないとされている。
やがて、海中に姿を消した巨大戦艦に関する、奇妙な噂が流れ始めた。ノンフィクション作家の吉村昭が1970年代に「戦艦武蔵ノート」で紹介した現地の噂によれば、武蔵は沈没途中に自重と浮力が吊り合ってしまい、着底することなく海流に乗って水中を漂い続けているというのだ。
その後、現地の漁民が「海中を漂う巨大な影を見た」とか、あるいは「水中探査を行った際、ソナーに正体不明の反応があった」など、噂に尾ひれがついて注目を集めるようになり、日本でも1990年代には小説「宇宙戦艦ムサシ」や松本零士のマンガに漂流する武蔵が使われるなどして、都市伝説を形作っていった。
しかし、今回の発見によって、水中を漂う武蔵の噂は単なる都市伝説であったことが確定し、解明されるべき謎は「なぜ、これまでの探査によって発見されなかったのか?」へ移った。
最も大きな理由は沈没地点がフィリピンの領海内で、政治的な問題もあって調査そのものが困難だったことと、やはり沈没地点の記録が曖昧だったことだが、さらに「沈没の過程で船体が水中移動したであろう」ことも挙げられる。武蔵は転覆の後、艦首より沈没しているが、水中で砲塔が脱落して再び艦底を下に着底している可能性が高いのだ。
戦艦の砲塔は船体の砲塔リングに乗せているだけなので、クレーンなどを用いれば引きぬくことが可能だし、転覆の際には脱落することもある。実際、ドイツの戦艦ビスマルクが転覆して沈没した際にも砲塔が脱落しており、船体は水中で回転しつつ流されている。武蔵も同様に砲塔が脱落し、船体が回転する過程で流されたとすれば、ただでさえ曖昧な沈没位置を基準とした捜索では発見できなかったであろうことは容易に推測できる。
今後は、戦艦武蔵の残骸が不法な盗掘にさらされぬよう、各国が協力して十分な保全措置を講じていく必要があるだろう。
(了)
*写真は、2006年に公開された映画「男たちの大和」オープンセット実寸大の一部です。