“夕ニャン”は、女子大生を中心とした関東ローカルの深夜番組『オールナイトフジ』から派生した、素人参加型のバラエティ。“オールナイト”のコーナー“女子高生スペシャル”が予想を超える評判だったため、深夜=女子大生、夕方=女子高生という安易なコンセプトで、独立させた。
司会は片岡鶴太郎と、松本小雪(開始時)。番組を盛り上げたのは、普通の女の子たち、11人だ。彼女たちはズブの素人のため、歌わせれば下手、踊らせても無理、愛嬌でその場を乗り切る才能しかなかった。しかし、おニャン子クラブになり、番組テーマ曲『セーラー服を脱がさないで』をリリースすると、初回プレス2万枚の生産が追いつかないほど、ブレイク。歌手デビューイベントには4,000人のファンが押し寄せ、中止になった。86年には海外ロケでレコーディング、ビデオ撮り、写真集撮影などを行い、日本武道館も満員にした。
結成時のフロントメンバーで、一番人気だった新田恵利のソロデビュー曲『冬のオペラグラス』は、オリコン初登場第1位で、30万枚をセールス。同時期の人気メンバーだった国生さゆりも、『バレンタイン・キッス』でそれに続くと、いまだに歌われる超ロングセラーになった。そんな彼女たちが次々と卒業を決めたころ、番組内オーディション“ザ・スカウト アイドルを探せ”から渡辺美奈代、渡辺満里奈、工藤静香、生稲晃子といった、のちのおニャン子を支えるスターが誕生している。
86年に発表されたオリコン・ヒットチャートランキングでは、1位を獲得した全46曲のうち、おニャン子、派生ユニット、ソロで30曲も占めている。さらに、おニャン子関連は合計71曲リリースされたが、42曲が1位に輝いている。ファンクラブ『こにゃん子クラブ』は、のべ50万人の会員数に膨れあがった。
ところが、始動から2年が経とうとするころには、主力メンバーが抜けていたこともあり、ゆるやかに下降線。夕ニャンバブルは完全に弾けて、87年8月31日、番組終了と同時に解散。わずか2年5か月という活動期間で、全52名のメンバーが巣立った。
おニャン子人気はもちろんのこと、番組最大の魅力は、生放送ゆえの暴走だ。なかでも、とんねるずが抜きん出ていた。人気絶頂だった石橋貴明、木梨憲武はこのころ、大人気音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)などでも、テレビの規制をどこまで破壊できるかに挑戦していた。そんなとき、のちにAKB48をブレイクさせる秋元康と出会い、勢いがさらに加速した。
最終的には、水曜レギュラーに落ち着いた二人。先述した「週の真ん中、水曜日。真ん中もっこり」は、過激さマックスのとんねるずを象徴するワードで、現在でもバラエティ番組で時折使われる。なかでも、黎明期にスタートした“タイマンテレフォン”は、とんねるずらしさ全開だった。
視聴者ととんねるずが電話でお互いをののしったあと、とんねるずが激怒。側近で観覧している男子もろとも大興奮で、石橋の号令によって、スタジオ中を大暴れ、白煙を噴射したり、フロアディレクターを蹴ったり、カメラを壊したり。おニャン子、一般客、司会者にも危害を加えた。白煙でブラウン管が真っ白に染まることもあった、あのハチャメチャコーナーは、のちに“ガンタレ選手権”、“腕相撲”に継承された。
大竹まことがまだ、常滑川まことを名乗っていたとき、同番組のレギュラーだった。とんねるずの毎週の暴れっぷりを見て、触発されたのか、生放送中にボイコット。観覧客を引き連れて、スタジオから出てしまったことがある。これはキャストの策略だが、逆に、スタッフがタレントをハメることもあった。極悪同盟として大人気悪役レスラーだったダンプ松本の乱入が、それだ。鶴太郎が、電話で「ば〜か!」とののしると、スタジオにダンプが現れ、竹刀を振りまわし、おニャン子や観覧客を本気で泣かせた。
平均視聴率13%を叩き出した夕方の帯番組は、フツウの女の子をスーパーアイドルにし、小太りの作家を日本を代表する敏腕プロデューサーにし、有名タレントをさらに高いステージに上げた。あんなに熱く、あんなにハラハラする平日夕方を過ごすことは、おそらくこの先ないだろう。
(伊藤雅奈子=毎週木曜日に掲載)