また賀茂氏に弟子入りして陰陽道を学んでいた青年期にも謎が多くある。晴明が20歳前後の頃、関東では平将門の乱が起きている。このとき、将門は北斗七星を使った呪術(妙見信仰)や菅原道真の怨霊を駆使して、都に戦を挑んでいるが、朝廷側も陰陽師や密教僧を使ってこれに対抗した。この壮大な呪術合戦に、晴明も動員されている可能性は高いが、明らかにはなっていない。
関東には安倍晴明の史跡が数多くある。特に鎌倉には3カ所、晴明に関する史跡が残されている。京都に比べ、乾燥しがちで火事の多かった鎌倉では、「火防の神」として晴明の伝説を伝えている。宿泊したお礼に晴明が、宿泊先に「火防のお札」を置いていったという話があるのだ。鎌倉での晴明伝説は、源平合戦後、都から鎌倉に移住した陰陽師たちが晴明個人の伝承として伝えていったのだろう。
晴明伝説は鎌倉の対岸・千葉にも残されている。房総に滞在した晴明は、なかなかのプレイボーイだったらしい。なんと、滞在先の有力者の娘・延命姫と一夜の契りを結んでしまったのだ。しかし翌朝、晴明は延命姫の顔を見て仰天した。彼女の顔には大きなアザがあるのだ。
「闇夜では美女に見えたのだが…」と驚いた晴明は逃げ出した。その後を延命姫は懸命に追った。必死に逃げ回る晴明は自らの衣服を脱ぎ、崖から飛び降り自殺したように擬装工作を図った。追ってきた姫は晴明が身投げしたと思い、自らも入水してしまった。なおこの時、延命姫は怨念から、夜叉、あるいは蛇体になったと言われている。
いかがであろうか。実際、晴明が千葉で女を捨てるという野暮なことはしないだろうが、鎌倉時代以降、中央でもてはやされた陰陽道が地方に流布されたのは事実のようである。
(山口敏太郎)