あれはたしか川崎競輪の初日特選だった。高原永伍の長兄・悠光が先行して平間誠記(宮城)ー笹田と続いた。まともにいけば、平間ー笹田で決まるレース。満員のスタンドのファンは誰もが本命サイドで決まると思っていた。
だが、同期・永伍の兄でしかも地元の悠光を平間が少しでもいい着に残そうとしたのだろう。4コーナーになっても平間は追い込みにかからなかった。
これを見て笹田は強引に中を割って出た。高原と平間の間は空いていなかったから、もろに平間と笹田は接触して落車した。結果は落車を避けた小川隆(千葉)が大外伸びて1着、高原悠光が2着に残って10万円以上の大穴になった。
もちろん、当時は3連単がなく枠連だから、万車券というのはせいぜい1万円以上のもので、こんな大穴はめったに出ないからスタンドのファンは驚くより呆れかえった。
『3番手は中割り』が当時のセオリーだったから笹田は突っ込んだのだが、平間がなめるように逃げについていたのでコースは空いていない。
「前輪を差し込むスキがあれば、突っ込むのが追い込み屋の根性だった。突っ込むと自然に空くものだよ」とある追い込み選手は言っていた。それにしても、当時最強の平間を破ろうという笹田の競走に対する闘志のすごさは目についた。
落車が多かった笹田は晩年、後遺症で車椅子の生活を余儀なくされたという。まさに「スッポンの笹田」という追い込み屋は命を懸けた戦いをしていたのだった。