板井は、昭和31年3月21日、大分県臼杵市で生まれている。中学までは野球少年だったが、大分県立水産高校に入学後、173センチ、80キロの体を見込まれて相撲部に入り、メキメキと頭角を現した。力士には様々なタイプがあり、多彩なワザを駆使する相撲巧者も多いが、板井が徹底的に叩き込まれたのは突き、押し。それに、それを利したはたきの3つだけだった。
しかし、板井はたったこれだけで高校3年時に国体で3位入賞、黒崎窯業に就職後はやはり国体青年の部で優勝。大相撲入りすると幕内を54場所も務め、小結までのぼり詰めたのだから、脇目も振らずに一つのことを追求することがいかに大事か、よく分かる。
高校卒業時も相撲部屋や大学相撲部から声がかかったが、就職して4年目の昭和53年秋場所、大鳴戸部屋に入門。22歳だった。
幕下に付け出されてもおかしくない実績を残していたが、板井のスタートは一番下の前相撲。だが、そこから目覚ましい記録を作る。序ノ口、序二段、三段目と3場所連続して全勝優勝。4場所目の幕下の6番相撲で元小結大錦に敗れるまで、なんと26連勝したのだ。
これは当時のデビューからの最多連勝記録だった。デビュー1年後の昭和54年秋場所で早くも十両に昇進。これもまた、スピード昇進の新記録だった。
この十両昇進を機に、四股名を本名の「板井」から師匠の大鳴戸親方(元関脇高鐵山)が名乗っていた「高鐵山」に改めた。しかし、けがなどで低迷したため、1年半後に再び「板井」に戻している。
その1年後の昭和55年秋場所、24歳で入幕を果たしたが、間もなく左ひざのけがなどで幕下45枚目まで降下した。スピード昇進の反動が出たのだ。この試練は2年あまり続いたが、昭和58年春場所、4度目となる入幕を果たすとようやく成績も安定し、前頭上位で活躍するようになる。
板井のヒールぶりを強く印象付けたのは、横綱大乃国戦だった。板井は両手にウレタンなどのパットを入れてその上を包帯で分厚く巻き、さらにたっぷり水を含ませてパンパンの状態にして、大乃国の顔面めがけて張り手、というよりもパンチを浴びせたのだ。この容赦のないパンチ攻撃を磨くため、ひそかにボクシングジムに通っていたという話もある。
こんな反則まがいの攻撃をされては、いくら横綱でもたまったものではない。生涯3個の金星をあげた板井だが、そのすべてが大乃国からあげたもの。一発KOされたこともある大乃国は、後にこう語っている。
「あまりにも腹が立ったので、腕をへし折ってやろうかと思ったこともある」
★引退後、親方不適格の報復
板井のピークは、平成元年春場所。大関小錦や、すっかりカモにしていた大乃国などを相次いで破って自己最多の11勝をあげ、初三賞となる殊勲賞、技能賞をダブル受賞。翌場所、自己最高位の小結に昇進した。
「気分いいス」
我が世の春の到来に板井はご機嫌だったが、ほどなくして次第に下降線を辿ることになる。得意の突き、押しが徐々に通じなくなったのだ。
もはやここまで、と強く痛感させられたのが、平成元年名古屋場所。幕尻近くの東前頭14枚目まで落ちていた板井は、なんと初日から千秋楽までオール黒星を記録、全敗したのだ。幕内力士としては史上4人目の屈辱だった。
この翌場所、十両に転落した板井は3日目に引退。すでに35歳になっていた。
この引退するとき、板井は好き放題ですごした現役生活のしっぺ返しを受けることになる。年寄「春日山」を襲名すべく準備を整えていたにもかかわらず、当時の二子山理事長(元横綱初代若乃花)に拒否されたのだ。こんなことは前代未聞のことだった。
なぜ板井は親方になれなかったのか。理由は明らかにされなかったが、思い当たるフシはいくつもあった。その一つが「八百長疑惑」だった。
当時の大相撲界は八百長の蔓延が噂され、その仲介役、いわゆる“中盆”として板井の名前が挙がっていた。
さらに素行の悪さも影響した。大乃国に対して反則すれすれの攻撃を仕掛けたほか、巡業にも左ひざの不調を訴えてほとんど参加せず、参加してもまったくと言っていいほど稽古しなかったりしたため、協会首脳に睨まれていたのだ。
15戦全敗も影響したと見られている。こんなことが積もり積もって「親方不適格」の烙印を押されてしまったのである。
このため、大相撲界を去らざるを得なくなった板井は、一時、東京都江戸川区内でちゃんこ店を開業したが、すぐ潰れた。あまりにも出世が早かったため、ちゃんこ番の経験が少なく、うまく味付けができなかったのだ。
こうして表舞台から消えた板井だったが、平成12年、意外な形でマスコミに再登場することになる。日本外国特派員協会で講演を行い、31回優勝し、国民栄誉賞も受賞している大横綱、千代の富士の八百長を告発したのだ。
その中で、昭和63年の夏場所から九州場所にかけて達成した当時史上2位(現在は3位)の53連勝についても詳述している。
「3分の1がガチンコで、残りの3分の2は事前に星を譲ってもらう約束ができていた八百長だった。横綱、大関はその場で清算する買い取りが多かった」
記者たちに「証拠はあるか」と問われると、板井はこう言って胸を張った。
「証拠はこの私です」
つまり、自ら中盆だったことを明かしたのだ。
★仕事もできず最後は孤独死
さらに、八百長を克明に書いた暴露本も出版。これらの記事、証言を巡る裁判にも証人として出廷し、八百長の存在を認めるなど、大相撲界に大きな揺さぶりをかけた。板井はかつての古巣に真っ向から戦いを挑んだのだ。
ただ、こういう行為が命がけであることも、誰より分かっていた。というのも、板井が告発する4年前、元師匠の大鳴戸親方こと菅孝之進さんも、やはり横綱北の富士の八百長などを週刊誌上で告発。板井と同じように日本外国特派員協会で講演しすべてを明らかにする予定だったが、その直前に息苦しさを訴えて愛知県豊明市の病院に緊急入院し、3日後に急死したのだ。病名は「重症肺炎」だった。
このとき、同じ症状を見せた後援者と一緒に入院しているが、奇妙なことに、この15時間後に後援者も同じように死亡。2人とも解剖もされずにすぐさま荼毘に付された。
こんな謎だらけの物騒な前例に怖れをなしたのか、板井は自ら騒ぎに火を付けながら深追いはせず、ほどなくしてまた市井に身を潜めた。自分1人では、どうにもならないことを知っていたのかもしれない。
板井が三たび、マスコミの前に姿を現したのは、今年の夏の真っ盛り、8月15日のことだ。それは新聞の死亡欄だった。
現役時代の食生活の乱れから重度の糖尿病を患い、人工透析を受けていた板井。心臓にはペースメーカーも埋め込まれていたという。
この日、予約を入れていた人工透析の病院に現れず、親族から依頼された元付け人が自宅を訪ねたところ、床に倒れている板井を発見。急いで救急車を呼んだが、すでに息を引き取っていたという。享年62。絵に描いたような孤独死だった。
発見時、水道の蛇口は開けっ放しだったというから、止める暇もなく急に倒れた可能性が高い。死因は特定されなかった。
「現役時代に結婚し、子供もいたが、その後に離婚。体が悪かったこともあって働くこともできず、独り暮らしだった。愛犬をかわいがり、一緒に散歩するのが日課で、現役時代に左ひざを痛めていたが、自力で歩いていた」
引退後もずっと交流を続けていたという、板井を発見した元付け人はこう話している。
これらの言葉の向こうに、板井の寂しかった晩年が透けて見える。栄光は束の間。板井がどんな思いで息を引き取ったか、今となっては誰も分からない――。
相撲ライター・大川光太郎