search
とじる
トップ > その他 > 競輪人国記 岡山(1)

競輪人国記 岡山(1)

 しぶとい追い込みかまくり選手の多かった岡山だが、競艇選手も一流が多く、プロ選手になる環境は整っている。

 豪快なまくりといえば田中省吾(9期)がいた。この田中と大倉寛(期前)は昭和41年の後楽園・日本選手権で準優を突破すると、二人でトップ引きを勤めたことがあった。
 当時は今の先頭固定ではないからトップ引きが必要だった。同県でもラインを組まず、先頭賞金を狙うあたりはしっかりしている。
 地脚のあるまくりの峰重和夫(11期)大ギア先行で一発のあった小谷克明(14期)則雄(17期)の兄弟は伏線狙いの穴ファンには絶好の狙い目先行だった。丹波秀次(23期)も新人の時から番手を狙って落ち着いたレースをした。

 だが、小柄な体でマーク強引だった国松利全(39期)は忘れられない。同期には尾崎雅彦(東京)や「ウルフ」こと木村一利(広島)がいたし、同県同期には競輪学校の卒業記念を制した長谷忠もいて、新人の頃にはあまり目立つ存在ではなかった。だが、昭和54年5月にA1(今のS1)に上がると、特別競輪初参加の6月高松宮杯の西王座戦で落車しながら再乗して優参を決めた根性は「これはただ者ではない」と思わせた。
 「ワシはいつも頭勝負のマーク屋と思っている。これは追えんなあと思っても中を突っ込む。もちろん3番手で中割りがいい時は無理せんが、本線の番手に競りかけたほうが良いレースが出来るんじゃ。それで年に5回くらい落車したけど、これがワシの闘い方やからのう。それでいいんじゃ」という話を現役のころの国松に聞いたことがある。

関連記事


その他→

 

特集

関連ニュース

ピックアップ

新着ニュース→

もっと見る→

その他→

もっと見る→

注目タグ